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廃助傍の三義

提供: 新纂浄土宗大辞典

はいじょぼうのさんぎ/廃助傍の三義

法然専修念仏の教えにおいて、諸行の位置づけを示す三つのあり方のこと。具体的には廃立はいりゅう助正じょしょう傍正ぼうしょうの三種であることから、「廃助傍の三義」と呼ばれる。法然は、阿弥陀仏等が往生行としては念仏のみを選び勧めているので、その通りに修すべしとして専修念仏の教えをたてたが、なぜ念仏のみといえるのか、その教証を示すのが『選択集』であり、弥陀釈迦・諸仏が念仏のみを選択せんちゃくしている経文を各章に一つずつ提示した(ただし第一・二・八・九章は除く)。しかし『同』四において提示される『無量寿経三輩段には、念仏以外の行も多く列挙されており、なぜこれが念仏一行選択の根拠となるのかという、さらなる疑問が生じることとなる。それに対し法然は、上中下の三輩が共に余行を説き示しながらも「一向専念無量寿仏」等と述べており、一向とは他の行を兼ねないことであるから、本願との整合性を考えるなら、「三輩段」も念仏のみを勧めていることになるとする。ただ、それではなぜわざわざ諸行が説かれるのか、という疑問に対しては、①廃せられるべき諸行にはどのような行があるかを示すため、②念仏助成じょじょうするものとしての諸行を示すため、③念仏諸行のそれぞれに三品があることを示すため、という三つの理由を述べる(『選択集』四、聖典三・一二五~八/昭法全三二二~四)。そして引き続き法然はこの三者を、専修念仏の教えにおける諸行の位置づけを示すものとして再解釈してゆく。『選択集』に先立つ『無量寿経釈』(昭法全九〇~一)ではこの三者を但念たんねん・助念・諸行たんしょぎょうと見なし、専修念仏の立場からすると、最終的には後二者は否定されると述べていたが、『選択集』では三者を廃立助正傍正と捉え直す。このうち廃立義とは念仏のみを「立」て、諸行を「廃」するあり方である。ただし、この廃立義を「正と為す」と位置づけつつも、『選択集』では三義とも「一向念仏のため」と述べて、後二者も専修念仏に抵触しないあり方として承認する。まず、助正義は「正」なる念仏諸行助業として「助」けるというあり方である。『無量寿経釈』においては、助業念仏を補う意味での助業とされていたため否定された。しかし『選択集』では助業を、念仏の不足を補う行ではなく、念仏を増進し専修念仏に至らしめるための行として捉え直すことにより、助正義も専修念仏と矛盾しないあり方として承認されるに至ったと考えられる。一方、傍正義は念仏を「正」、諸行を「かたわ」らとするあり方であるが、詳しい説明がなく実内容は不明である。良忠決疑鈔』(浄全七・二五一上)では、念仏諸行ともに仏が衆生機根に従って説いた行であるので、経の正意である念仏を正、そうでない諸行を傍としつつも、諸行も消極的ながら認めるあり方と解釈しているようである。また、良忠はそれに続いて、三義の他に口伝として第四の義というものがあると述べる。即ち三輩段の「一向」の語は余行にも付加し得るとして、「一向諸行」というあり方も肯定的に承認している。聖冏直牒じきてつ』(浄全七・五四九下)でも、同様のことが言及されている。なお、西山派西谷義せいこくぎでは廃助傍の三義を、廃立傍正助正の順に並べ替え、段階的な概念として独自の解釈を行う。まず廃立は行門の立場とし、念仏諸行の間だけでなく、聖道浄土自力・他力等にも適応されるとする。次に傍正とは廃した諸法・諸行を「傍」たる定散の観門として取り返し、「正」たる念仏を顕し出すものとする。そして助正とは信心決定後、仏恩報謝のために修する定散諸善を助業と位置づけて修してゆくあり方とみる。


【参考】香月乗光「一向専修の実践的構造—『廃助傍三義』についての考察—」(同『法然浄土教の思想と歴史』山喜房仏書林、一九七四)、安達俊英「法然上人における選択思想と助業観の展開」(『浄土宗学研究』一七、一九九一)、杉紫朗『西鎮教義概論』(百華苑、一九八八)


【参照項目】➡廃立正定業・助業


【執筆者:安達俊英】