操作

選択

提供: 新纂浄土宗大辞典

せんちゃく/選択

仏による選び取りと選び捨てのこと。法然による創唱であり、その主著『選択集』を貫く思想内容であり、専修念仏の思想的根拠。法然以後に連なる、いわゆる鎌倉仏教における行の専修化に多大な影響を与えた。一般的には「せんたく」と読んで、複数のものの中から、目的に沿うものを選び取り、それ以外のものを選び捨てることを指すが、法然が「選択せんちゃく」として用いる場合は、その主格は弥陀釈迦・諸仏の三仏に限定され、それだけ慎重にこの語を用いていることが窺える。真宗では「せんじゃく」と読み慣わしている。そもそも、東大寺講説三部経釈」中に見られる「選択」等の用語は、後人による『選択集』の挿入である蓋然性が高く、法然の思想史において、「選択」の語が用いられるのは、『逆修説法二七にしち日において「弥陀如来の因位法蔵菩薩の時、四十八願を発して、浄土を設けて仏に成らんと願じたまえる時、衆生往生の行を立てんと撰定したもう時、余行を撰捨して、唯念仏一行を撰定して、往生の行と立てたまえり。この選択の願と云うるは、大阿弥陀経の説なり」(昭法全二四四)と説示されるのが嚆矢であり、『同』三七さんしち日・五七ごしち日にも「選択」思想への言及があるが、その典拠と主格は『大阿弥陀経』と阿弥陀仏に限られている。

その後、『選択集』三において法然は、『無量寿経』所説の法蔵説話を引用した後、「『大阿弥陀経』に云わく、〈その仏すなわち二百一十億の仏国土の中の諸天人民の善悪、国土の好醜を選択し、為に心中所欲の願を選択す。楼夷亘羅るいごうら仏[ここに世自在王仏と云う。]経を説き畢って曇摩迦どんまか[ここに法蔵と云う。]すなわちその心をもっぱらにして、すなわち天眼を得、徹視してことごとく自ら二百一十億の諸仏の国土の中の諸天人民の善悪、国土の好醜を見て、すなわち心中の所願を選択して、すなわちこの二十四願の経を結得す〉。[『平等覚経』またまたこれに同じ。]この中の選択とは、すなわちこれ取捨の義なり。謂く、二百一十億の諸仏の浄土の中において、人天の悪を捨てて、人天の善を取り、国土の醜を捨てて、国土の好を取るなり。『大阿弥陀経』の選択の義かくのごとし。『双巻経』の意また選択の義有り。謂く、二百一十億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取すと云えるこれなり。選択と摂取とその言は異なりといえども、その意これ同じ。然れば不清浄の行を捨てて、清浄の行を取るなり。上の天人の善悪、国土の粗妙その義また然なり」(聖典三・一一五~六/昭法全三一八)と、『大阿弥陀経』の経説を引用した上で、『大阿弥陀経』と『平等覚経』に説かれる「選択」とは「取捨」の意であり、阿弥陀仏法蔵菩薩であった時代、二百一十億の諸仏の浄土の中から、「善・好」なるものを選び取り、「悪・醜」なるものを選び捨て、「選択」して本願を建立したとし、『無量寿経』に説かれる、阿弥陀仏四十八願建立にあたり用いられる「摂取」が「選択」と同義であるとした。加えて法然は、『無量寿経』の経文に基づいて、浄土往生の行についても「善・悪、粗・妙」と同様に「清浄・不清浄」という選択の基準があることを読み取り、阿弥陀仏本願力が加わる称名念仏功徳の深勝性の根拠を提示することに成功し、選択本願念仏思想の理論的根拠を確立した。さらに法然は、『選択集』一六において、「選択」の主体を阿弥陀仏のみではなく、釈迦や諸仏へと拡大し、「浄土三部経」を通じて、弥陀釈迦・諸仏の三仏が同心に浄土往生の行として、他の諸行を選び捨て、称名念仏一行を定め、讃え、付属するなど八つの側面から選び取ったとする八種選択を組織化し、浄土一宗が一代仏教中に確固たる位置を占める道を切り拓いた。なお、八種選択の直後に法然は、一代仏教の中から我々衆生念仏一行に向かう道筋として三段階の選び取り、選び捨てを明かした、いわゆる略選択三重の選択・惣結の文)を示しているが、仏の聖意に基づいてはいるものの衆生の側からの取捨ということで三度「選」を用いるに留め、「選択」の使用を控えていることを見逃してはならない。

こうして法然は、我々凡夫が修すべき行の選び取りの主体を凡夫の側から仏の側(経典・仏説・仏辺)へと転換・昇華するという、これまでの仏教各宗派の行の捉え方とは根本的に異なる独創的・画期的な選択思想を構築することとなり、「独り立ちをせさせて、すけを差さぬ」(『つねに仰せられける御詞』聖典六・二八〇/昭法全四九三)選択本願念仏による浄土立宗を成し遂げたのである。なお、こうした選択思想を展開した『選択集』の思想的拠り所が善導の釈書に求められることは明白だが、法然善導一師に「偏依」し、諸師を退けることを主張し得たのも、善導弥陀化身と仰ぎ、その所説を「弥陀の直説」(聖典三・一九〇/昭法全三四九)と受けとめたからに他ならない。つまり法然にとって「選択」も「偏依」も共に仏説に裏付けられることが条件であり、「選択」と「偏依」とは密接不可分な思想内容と言い得よう。こうして法然は、仏説である「浄土三部経」と弥陀化身たる善導の釈書との有機的統合からなる『選択集』の説示内容が正統性と普遍性を有していることを暗示したのである。その一方、仏の側からの取捨という選択思想は、その人間観世界観を把握し得ない者には、誤解を招く恐れがあることから、法然は他書に選択思想を明示、展開することに慎重な姿勢を保持している。


【参考】安達俊英「いわゆる〈略選択〉について」(『佛教大学報』四六、一九九六)、林田康順「『選択集』における善導弥陀化身説の意義—選択と偏依—」(『仏教文化研究』四二・四三合併、一九九八)、同「『選択集』の構造—偏依善導一師—」(印仏研究五五—一、二〇〇六)、同「法然における〈選択〉思想の成立とその意義」(『仏教学』五一、二〇〇九)


【参照項目】➡八種選択選択本願念仏勝劣の義難易の義


【執筆者:林田康順】