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大教院

提供: 新纂浄土宗大辞典

だいきょういん/大教院

明治初期の民衆教化政策の中核を担った機関。明治五年(一八七二)四月に教導職が設置され、仏教が民衆教化政策に参加することとなったため、その人材を養成することを目的に同年五月、仏教各宗が設立を建議し、認可された。その後、神道も加わった神仏合同機関となり、さらに神殿を設けるなど、神道色が強まっていった。大教院のもとには、府県ごとに設けられる中教院、各社寺などの小教院が位置付けられ、大教院を頂点とする教院体制が構築された。当初は元紀州藩邸に置かれていたが、すぐに芝増上寺に移り、同寺側の反対を教部省側が押し切る形で本堂を接収、同六年六月に神殿上棟祭、神殿四柱大神鎮祭、開講式が開催された。ここでは、僧侶烏帽子直垂ひたたれを着用して海の幸や陸の幸を奉納し、祝詞のりとを奏上するなど、神仏混淆が著しく、これが仏教側の反発を招くことになる。大教院の所管事項は法令によって定められ、教導職の試験、生徒の講習、教義の研究、教義書の編纂といった教導職育成機能や、神殿での儀式、講堂における説教、また全国の教化指導や講社の管理などを担った。しかし、その中心というべき生徒の講習は、資金不足などによってほとんど成果を上げられず、講堂における説教も、その技能自体が問題視されたほか、宗派間で説教の内容に相違がみられ、相互に対立するなど聴衆を混乱させた。こうした大教院を「一大滑稽場」と揶揄した島地黙雷が、浄土真宗大教院からの分離、さらには大教院教部省自体の解体を求めてさかんに建白書を提出し、いわゆる大教院分離運動を展開した。長州出身の島地は木戸孝允や伊藤博文といった長州閥政治家と親密な関係にあり、木戸や伊藤は島地の活動を支援して政府内部での働きかけを行っている。大教院は、内部で対立や停滞がみられる中、外部から厳しい批判を受けたことで、その存続の道を絶たれ、同八年五月に解体された。その所管官庁であった教部省も、同一〇年一月の行政改革に伴って廃止された。


【参考】小川原正道『大教院の研究—明治初期宗教行政の展開と挫折』(慶応義塾大学出版会、二〇〇四)


【参照項目】➡教導職中教院小教院


【執筆者:小川原正道】