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信機・信法

提供: 新纂浄土宗大辞典

しんき・しんぽう/信機・信法

自らの機根を信じ仏の教えを信じること。自己自身は現実に煩悩さいなまれ迷いの世界を離れることができない存在者であることを深く信じ(信機)、そのような者が阿弥陀仏本願によって浄土往生できると深く信じる(信法)こと。二種深信ともいう。 『観経上品上生で説示される三心の中の深心について、善導は『観経疏散善義で「深く信ずる心」と捉え、往生のために起こすべき二種の信心として「就人立信じゅにんりっしん(人に就いて信を立つ)」と「就行立信じゅぎょうりっしん(行に就いて信を立つ)」を述べる。これは念仏往生を願う者として最も大切な心がけとすべきものであり、この心が起きれば信仰が確立する。前者の就人立信に関して機法二種の深信が強調される。すなわち、「深心と言うは、すなわちこれ深く信ずる心なり。また二種あり。一には決定して、深く信ず。自身は現にこれ罪悪生死の凡夫曠劫こうごうより已来このかた、常に没し常に流転して、出離の縁あること無しと。二には決定して深く信ず。かの阿弥陀仏四十八願をもって、衆生摂受したまう。疑いなくうらおもい無く、かの願力に乗じて、定んで往生を得と」(聖典二・二八九/浄全二・五六上)とある。この文の前半部分を信機、後半部分を信法といい、全文について信機信法と呼称する。信機とは、自己という人間存在者を深く自覚凝視したとき、つねに善を為そうとしながらも悪を犯してしまうような罪業深い救われ難い自己、すなわち、人間は本来罪悪生死の凡夫であり、自分の力では悟りえないことを自覚すること。信法とは、浄土往生の真理(法)を信ずること、すなわち『無量寿経』が説く阿弥陀仏本願不思議の力をあれこれ疑わずうらおもいなく、一心に深く信ずること。この信機信法が相まって、救われ難い凡夫阿弥陀仏本願力によって往生できるということを深く信じて称える念仏によって、浄土往生が成就されるのである。

さらに善導は、信法について「また決定して深く信ず。釈迦仏この『観経』の三福九品、定散二善を説いて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕ごんぼせしめたまうことを。また決定して深く信ず。『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏一切の凡夫決定して生ずることを得ることを証勧したまうことを」(聖典二・二八九/浄全二・五六上~下)と加えている。したがって、信法の内容は『無量寿経』(阿弥陀仏本願)、『観経』(釈迦仏の付属)、『阿弥陀経』(六方諸仏証誠)の三経によって三仏を信じ、三仏の総意で凡夫往生できることを信じることである。浄土往生し難い(救われ難い)罪悪凡夫の深い自覚によって、念仏を称えることで往生が可能となる論理は、念仏実践行の論理として注目すべきである。

法然信心の確立にあたって、信機信法とはどちらが先であるかについて、『往生大要抄』で「始めにわが身の程を信じ、後には仏の願を信ずるなり。ただし後の信心を決定せんがために始めの信心をばあぐるなり。その故は、もし始めの我が身を信ずる様を挙げずしてただちに後の仏の誓ばかりを信ずべき旨を出したらましかば、諸の往生を願わん人、雑行を修して本願たのまざらんをばしばらくく」(聖典四・三一二/昭法全五八)と言い、信機すなわち我が身自身が罪悪生死の凡夫であることを深く自覚することが先であると述べている。

信心が確立する過程に注目するならば、自らの罪悪生死の凡夫性の自覚(信機)、すなわち、我が身の程を信じることは、阿弥陀仏光明に照らし出されてこそ可能であり、信法信機によってますます深められていく。そこには、念仏することにおいて、信機から信法へ、信法から信機へという、両者の蠕動ぜんどう的循環を通して信心の確立の深まりがあると言えよう。


【資料】『往生礼讃』前序、『伝通記』


【参考】石井教道『浄土の教義と其教団』(冨山房、一九七二)、近藤徹稱「信機と信法」(『仏教文化研究』一〇、一九六一)、西川知雄「信機信法」(『仏教文化研究』一一、一九六二)、藤本淨彦「〈二種深信〉の宗教哲学的考察」(『法然浄土教の宗教思想』平楽寺書店、二〇〇三)


【参照項目】➡深心


【執筆者:藤本淨彦】