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霊潭󠄂

提供: 新纂浄土宗大辞典

れいたん/霊潭󠄂

延宝四年(一六七六)—享保一九年(一七三四)一一月三日。いみな性澂、号は東蓮社。近世浄土宗に大きな影響を与えた浄土律の祖。俗姓は藤原西岡。肥前国松浦郡伊万里(佐賀県)に生まれ、常光寺捜誉一玄の許で出家増上寺で学んだ後、鹿ししたに法然院忍澂のもとで、三年間にわたり道愛を蒙る。そこで戒律尊重の教えを受け、宗内での戒が廃れていることを「座視に忍びず」と嘆き戒律の復興を決意。近江国安養寺に戒山・湛堂の二師を訪ね、十重禁戒・沙弥戒を受けて刹主である湛堂を証明師として自誓受戒する。招かれて相馬藩(福島県)に移り興仁寺住持となり、九年間にわたり多くの人々を教化し戒を授ける。享保二年(一七一七)に京に戻り洛東至心庵に居を定め、再び道場に入り懺法を修する。その後、寄進された千日庵に移住し修営して聖臨庵と改め、そこでさらに多くの道俗に具足戒を授けている。同一九年七月に西肥前を化行して歩いたが彼の地より戻るとすぐ病にかかり、同年一一月三日往生の素懐を遂げる。常日頃より、大衆元照がんじょうの言葉「生きては毘尼びにを弘め、死しては安養に帰らん。勉めて怠ること勿かれ」を示していたという。著述には『持律機鑑』『円戒口決』『戒本訣』『正尼法要訣』『浄行正名浄行衆縵衣まんね着不問訣』『致敬法浄人須知法浄触法要絹衣開制問訣』『浄土礼誦法』などがある。


【資料】『略伝集』「福寿開山霊潭󠄂大和上行状」


【執筆者:渋谷康悦】