袋中
提供: 新纂浄土宗大辞典
たいちゅう/袋中
天文二一年(一五五二)正月二九日—寛永一六年(一六三九)正月二一日。弁蓮社入観。良定ともいう。近世初期の学僧。琉球に初めて浄土宗の教えを布教したことで知られる。奥州菊多郡岩岡(福島県いわき市)に佐藤定衡の子として生まれる。安芸厳島光明院以八は同母兄。同国西郷能満寺の存洞について出家し、のちに如来寺・専称寺・円通寺の名越派檀林で修学し、さらに天正五年(一五七七)江戸増上寺で白旗派の教義を学び、また足利学校に赴いて禅学も修めた。同九年、郷里の名越派檀林折木成徳寺良鄭の要請により一三世となる。慶長四年(一五九九)磐城平城主岩城貞隆の帰依により菩提院の開山となり、城下の庶民の尊敬を得た。同八年、中国に渡って新しい経論を求めようと出帆したが琉球に漂着。そこで尚寧王の帰依を得て桂林寺を創建し、三年間布教に専念した。その間に、現地の習俗や宗教について『琉球神道記』『琉球往来』を著した。同一一年に帰朝、筑後善導寺に参詣し、石見国を経て山城国へ入り、大山崎大念寺や橋本西遊寺などにしばらく留まり、同一六年春、伏見次郎兵衛の支援を受けて京都三条橋畔に檀王法林寺を創建。元和五年(一六一九)住居を洛北氷室山に移し、さらに東山菊谷に小庵(現・袋中菴)を結んだ。同八年には奈良に念仏寺を建てて移り住み、寛永元年(一六二四)瓶原(京都府木津川市)に心光庵を建て、一三年間住む。そして同一四年、綴喜郡飯岡(同京田辺市)の西方寺に住み、そこが終焉の地となった。袋中の著書は多く、磐城在住時には『梵漢対映集』『浄土血脈論』『浄土血脈端書』『麒麟聖財論私釈』『大原問答端書』『啓袋中』等を著し、帰朝から京都在住時には『説法明眼論端書』『諸上善人詠略釈』『浄土三部経相伝抄』『題額聖鬮賛』『天竺往来験記端書』『臨終要決私記』『当麻曼荼羅白記』『開題考文抄略釈』等があり、奈良や京都南部にあるときは『選択之伝』『南北二京霊地集』『浄土最初曼荼羅略記』『泥洹之道』等を残した。いずれも重要な著書であるが、執筆ばかりでなく、古記録や書写本の収集・整理に努め、一部は名越派檀林円通寺に寄贈され大沢文庫の充実に寄与した。さらに建立した寺院は二十余に上るという。精力的に活躍した近世屈指の学僧といえる。
【資料】『袋中上人伝』(浄全一七)、横山重『琉球神道記弁蓮社袋中集』(大岡山書店、一九三六)
【参考】藤堂祐範「袋中上人伝」「袋中上人年譜」「袋中上人著述および伝記、資料等目録」(『浄土教文化史論増補新版』山喜房仏書林、一九七九)
【執筆者:𠮷水成正】