藤本浄本
提供: 新纂浄土宗大辞典
ふじもとじょうほん/藤本浄本
明治一二年(一八七九)—昭和四六年(一九七一)一月四日。信蓮社寂誉仰阿専念。近代の高僧、光明修養会上首、知恩院耆宿。山口県大島郡西方村(現・周防大島町)に藤本和吉・ヨシの三男として誕生、幼名は市右エ門。明治二一年(一八八八)郷里の神宮寺で得度、同三〇年に浄本と改名し山口支校を卒業し、同三一年七月に増上寺七六世山下現有より伝宗伝戒を受ける。さらに宗教大学専門学院華厳部を卒業し、同三七年に第六教区支校(上官)教授となり、翌年宗教大学に転じ、同四二年に宗乗の教授となる。また明治四〇年(一九〇七)、神宮寺住職に晋董。同四四年九月に宗教大学を依願退職して帰郷、服部マサと結婚し、その後、浄土宗報恩伝道大島部隊長や山口教区教務所長などを務め、大正三年(一九一四)に屋代村(現・周防大島町)の西蓮寺一九世住職となる。同八年に初老記念に山崎弁栄を自坊に招いて以後、光明主義こそ現代に生きる浄土宗義であると受領し、以後光明会を中心として五重相伝や授戒会などの布教活動に専念した。「弁栄上人は本願念仏三昧を仏に付して光明主義とし、法然上人は我らの得益の面より往生主義を称えられたので、お二人のご精神は一致している」(『浄土信仰をめぐる問いと答—浄土宗義と光明主義—』一七頁)と捉えている。その間、知恩院伝宗伝戒道場勧誡師をはじめ、教学高等講習会講師・夏安居講師・布教講習所講師・仏教文化研究所名誉所員・学階論文審査委員・教学院顧問などを務めた。育てた弟子は二十数名を数える。昭和四六年一月四日自坊で示寂。著書に『阿弥陀仏の信仰』、『一枚起請文講話』、『私の念仏観』、『浄土信仰をめぐる問いと答—浄土宗義と光明主義—』(共に藤本淨彦編集・『藤本浄本遺文集』所収)がある。
【参考】大橋俊雄『浄土宗人名事典』(斎々坊、二〇〇一)
【参照項目】➡光明会
【執筆者:藤本淨彦】