真身観文
提供: 新纂浄土宗大辞典
しんじんがんもん/真身観文
『観経』に説かれる定善十三観のうち第九観を説く章段。浄土宗における各種法要や日常勤行における誦経として用いられる代表的な経文。釈尊が阿難と韋提希に向けて説き示した。善導によれば、無量寿仏(阿弥陀仏)の仮の真像を観ずる第八観に次いで、ここではその真身観が説かれるとされる。また浄影寺慧遠がこれを仏身観と称し、その呼称も踏襲されている。経文では阿弥陀仏の身体の金色、六十万億那由他恒河沙由旬の身長、須弥山の白毫、四大海の広さの眼、百億三千大千世界に相当する円光の広さなどが示され、また八万四千の相(きわだった特徴)が具わっており、その一々の相にも八万四千の小さな特徴(随形好)があって、そこから八万四千の光明が放たれているとする。それについては、「一々の光明、徧く十方世界を照らして、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」(聖典一・三〇〇/浄全一・四四)と説かれ、浄土宗では、この一節を「摂益文」と称し、各種法要や勤行において念仏一会の冒頭で唱え、またその趣意が法然により「月かけの いたらぬさとは なけれとも なかむる人の 心にそすむ」と詠まれていることから重要視される。また第九観は「徧観一切色身想」と称すると説かれ、阿弥陀仏を心眼で見ることができれば、一切諸仏を見ることになるという。さらに、仏身を観ずれば仏心を見るといい、その者は無生忍を得るとされる。この仏心は『観経』に「仏心とは、大慈悲これなり。無縁の慈をもって、諸もろの衆生を摂取したまう」(聖典一・三〇一/浄全一・四四)と説かれ、阿弥陀仏の心に言及する際、広く引用される。阿弥陀仏の相好は、眉間の白毫の一点を観じることから自然に現れるといい、阿弥陀仏を見、諸仏を見れば、諸仏から授記が与えられると説かれる。
【資料】『観経疏』玄義分、浄影『観経義疏』
【執筆者:袖山榮輝】