白蓮社
提供: 新纂浄土宗大辞典
びゃくれんじゃ/白蓮社
東晋の僧慧遠が廬山の東林寺で元興元年(四〇二)に創立した念仏実践の結社。「白蓮社」の名称は、東林寺の中に白蓮を植えたという伝説に由来する。白蓮華社ともいう(賛寧『大宋僧史略』下、結社法集)。この結社には慧持、慧永、曇恒等の出家と、劉遺民、雷次宗、周続之等の士大夫ら一二三人が参加したという。そのとき劉遺民が読んだ「立誓文」が『出三蔵記集』一五に収録される。唐代中期頃に『廬山十八高賢伝』が編纂され、道生や外国僧の仏駄跋陀羅、仏陀耶舎等も白蓮社の一員とされるが史実とは認めがたい。慧遠の時代にはまだ『観経』が訳出されておらず、白蓮社の念仏は支婁迦讖訳の『般舟三昧経』による念仏で、禅定を修し心中に仏を観想し般若智の体得をめざす定中念仏で、それによって浄土往生を期するのである。これは後の善導流の念仏とは異なるが、白蓮社を創立したという点で慧遠は中国浄土教の祖と仰がれ、また浄土宗を「蓮宗」とも呼ぶようになった。慧遠の念仏結社の影響は大きく、宋代になると、浄土道場を建て同志を集め念仏を勤修する結社が盛行した。太宗の淳化年間(九九〇—九九四)に、僧省常が慧遠の遺風を慕って、杭州の西湖畔の昭慶寺に僧俗一二三人とともに結社を結び浄行社と名づけた。そして仁宗の慶暦二年(一〇四二)に天台僧の本如は台州東液山の能仁寺で念仏結社を作り白蓮社と称し、仁宗から「白蓮」の額を賜った。その他にも、○〇社と称する多くの念仏結社が作られた。南宋の子元は「慧遠念仏宗を復興する」と称して白蓮宗の運動を起こし、その眼目を示した『円融四土三観選仏図』等数部を著した。多くの信者を集めたが、異端として弾圧も受けた。元・明・清時代には「白蓮教」と称したが、阿弥陀仏信仰から弥勒信仰中心に変容し、民衆反乱に関わる結社が活動した。しかし念仏結社も多く作られ、民国時代にも各地に蓮社が作られている。日本では安徳天皇元暦元年(一一八四)に、阿波守宗親が二四人とともに蓮社を結び、聖光の弟子宗円が天福元年(一二三三)に入宋して廬山に参詣し帰朝の後自ら白蓮社と号した。また文保元年(一三一七)に入元した澄円は廬山の結社を慕い帰朝して和泉の堺に旭蓮社を建てた。そして中世以降浄土宗では能化者は○蓮社という法号をもちいるようになった。
【資料】『高僧伝』六、『浄統略讃』
【参考】『塚本善隆著作集』五(大東出版社、一九七五)、鎌田茂雄『中国仏教史』二(東京大学出版会、一九八三)
【執筆者:佐藤成順】