定善・散善
提供: 新纂浄土宗大辞典
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じょうぜん・さんぜん/定善・散善
心を一つの対象に定めて妄念をおさえ実践する善(定善)と、心が外界の事象にとらわれて散乱しながらも悪をおさえ実践する善(散善)。浄土教ではとくに『観経』に説かれる浄土往生のための実践行が注目される。『観経』所説の行法を定善・散善と分類することはすでに浄影寺慧遠の解釈にみられ、『観経義疏』において『観経』説示の行法のうち三福を散善、十六観を定善としている。これに対して善導は『観経疏』玄義分において「問うて曰く、云何なるをか定善と名づけ、云何なるをか散善と名づく。答えて曰く、日観より、下十三観に至る已来を、名づけて定善とす。三福九品を名づけて散善とす」(聖典二・一六八/浄全二・四下)と述べ、日想観から雑想観までの十三観を定善、世福・戒福・行福の三福と上品上生から下品下生までの九品を散善と解釈している。善導がこのように解釈した背景には、経文の「我れに思惟を教えたまえ。我れに正受を教えたまえ」(聖典一・二九一/浄全一・三九)という説示の思惟・正受に対する解釈の相違がある。慧遠が思惟を散善、正受を定善と理解するのに対し、善導は思惟・正受ともに定善としている。これは善導自身の信仰に基づく『観経』理解が影響しており、『観経疏』玄義分に「定善一門は、韋提の致請。散善一門は、是れ仏の自説なり」(聖典二・一六七/浄全二・四上)と述べ、定善十三観は阿弥陀仏の浄土へ往生するために韋提希が釈尊に致請した行であり、散善三福九品は釈尊が未来世の一切の衆生を浄土へ導くために自ら説き明かした行であるとしている。この善導の定散二善の理解は、後に日本の浄土教者においても受容され大きな影響を与えている。法然『逆修説法』には「次に散善とは三福九品なり。但し天台等の意は十三観の上に九品の三輩観を加えて十六想観と名づく。今、定散二善を分かちて十三を定善と名づけ、三福九品を散善と名づくるは善導一師の御意なり」(昭法全二四〇)として自身は善導の説によって解釈したことを述べている。また善導は定善・散善の行と称名念仏について、『観経疏』定善義に「自余の衆行も是れ善と名づくといえども、もし念仏に比すれば、全く比校に非ず」(聖典二・二七三/浄全二・四九上)と述べ、浄土往生の行として念仏がもっとも勝れているとしている。さらに法然は『選択集』に善導のこの説示を解釈し、「意の云く、これ浄土門の諸行に約して比論する所なり。念仏は、これすでに二百一十億の中に、選取する所の妙行なり。諸行はこれすでに二百一十億の中に、選捨する所の粗行なり。故に〈全く比校に非ず〉と云う。また念仏はこれ本願の行、諸行はこれ本願の行に非ず。故に〈全く比校に非ず〉と言う」(聖典三・一三八/昭法全三二八)と述べ、念仏は阿弥陀仏に選択された本願の行であるから、定散二善の行を含めた諸行とは比較にならないほど勝れているとしている。
【資料】『伝通記』三・九、『決疑鈔』三・五
【参考】石井教道『選択集全講』(平楽寺書店、一九五九)、柴田泰山『善導教学の研究』(山喜房仏書林、二〇〇六)
【執筆者:沼倉雄人】