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摂受・折伏

提供: 新纂浄土宗大辞典

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しょうじゅ・しゃくぶく/摂受・折伏

衆生を導く方法の順逆の二面。いずれも衆生に対する慈悲の相である。折摂、摂折二門ともいう。衆生の善を受け入れ摂め取って導くことを摂受といい、衆生の悪をくじいて導くことを折伏という。一般に折伏摂受の前段階とされる。『勝鬘経』「十受章」には「我、今日従り乃至菩提まで、若し捕養衆悪律儀及び諸犯戒を見るも終に棄捨せず。我れ力を得ん時、彼彼の処に於てこの衆生を見ては、まさに折伏すべき者はこれを折伏し、まさに摂受すべき者はこれを摂受す。何を以ての故に。折伏摂受を以ての故に法をして久しく住せしむ。法の久しく住すとは天人充満し、悪道減少す」(正蔵一二・二一七下)といって悪衆生を捨てずに、折伏摂受によって導くとする。これについて、聖徳太子『勝鬘経義疏』では重悪は勢力によって折伏し、軽悪は道力によって摂受し、そのことで悪をめ善を修せしめ、聖化久住するとして、折伏摂受の働きの別を述べる(正蔵五六・四中)。『無量寿経』下の「泥洹ないおんに開入し、教授典攬でんらんし、威制をもって消化して」(聖典一・二六六/浄全一・二六)について義山は「開入泥洹教授典攬」を摂受門、「威制消化」を折伏門と位置づける(浄全一四・四五五下)。また良忠は『伝通記』玄義分記一にて「この宗の意は上一形を尽し、下十念に至るまで、皆往生することを得。これ機を摂受するなり」(浄全二・一〇一上)と述べて、念仏往生摂受とする。ちなみに日蓮は『如説修行抄』において、末法の世では権教は実教の敵であるから実教より責めるべきでありこれを法華の折伏というとする(正蔵八四・二九〇中)。日蓮四箇格言はその一表現であろう。


【参照項目】➡四箇格言


【執筆者:齊藤舜健】