散善自開
提供: 新纂浄土宗大辞典
さんぜんじかい/散善自開
散善の行は、釈尊が自ら開説したものとする説。すなわち『観経』に説く十六観は釈尊が極楽世界へ往生する方法を教えて欲しいという韋提希夫人の依頼に答えて説いたものであるが、その中で最後の三観は日常の散乱・動揺する心のままで実践することのできる行(散善)であって、心を調えて行う行(定善)ではない。しかもそれは釈尊自らの慈悲心より開説された(自開)ものであるという意味。この十六観について、浄影寺慧遠、吉蔵、智顗らは十六観すべてを定心の中に実践すべき行(定善)であるとし、韋提希夫人の請に答えて説いたものとしている。これに対して善導は『観経疏』玄義分において「定善一門は、韋提の致請。散善一門は、これ仏の自説なり」(聖典二・一六七/浄全二・四上)とし、また『同』序分義には「一切衆生の機に二種有り。一には定、二には散なり。もし定行に依れば、すなわち生を摂すること尽さず。ここを以て如来方便して、三福を顕開して、以て散動の根機に応ずることを明す」(聖典二・二二一/浄全二・二九下)と述べて、「未来世一切の凡夫」をも視野に入れて、十六観の中、前の十三観を定善、後の三観を散善と見て、後者を如来の自説とした。これは善導独自の説である。
【参考】浄影『観経義疏』、吉蔵『観経義疏』、天台『観経疏』(共に浄全五)
【参照項目】➡十六観
【執筆者:金子寛哉】