迎接曼陀羅
提供: 新纂浄土宗大辞典
こうしょうまんだら/迎接曼陀羅
極楽迎接曼陀羅、弥陀迎摂曼陀羅ともいい、阿弥陀来迎図をいう。その始源は源信の『往生要集』の選述による来迎思想の盛行からである。源信に帰依し往生を願った平維茂が、臨終に及んで源信に善知識を願ったとき、源信は自分のかわりに自ら描いたという「極楽迎接曼陀羅一舗」を贈っているが、三善為康は「我朝の迎接曼陀羅の流布ここに始まる」(『後拾遺往生伝』中、続浄一七・一一六上)といい、源信をその始めとしている。また聖聡も源信が迎接の相の儀式(迎講)を行ったことを述べ、さらに多くの人々に来迎の相を見せんがために絵画化し、それを「迎接曼陀羅」といったという(『当麻曼陀羅疏』五)。さらに利益を広く及ぼさんがために版木に彫り刷ったという。今日「乱れ版来迎図」といい、室町時代の摺本が残されている。源信によって来迎思想が説かれ「迎接曼陀羅」が描かれてより、一般に普及したようで、応徳三年(一〇八六)『江都督納言願文集』をはじめ『中右記』『永昌記』『兵範記』『讃仏乗抄』などに、臨終や追善供養、逆修のために用いたことが知られる。また法然が秘蔵し熊谷直実に授けたという「迎接曼陀羅」は、「来迎の弥陀三尊、無数の化仏菩薩」が描かれたものであった。『四十八巻伝』に描く「迎接曼陀羅」の図相は、真中に柱がありその部分は隠れているが、聖衆来迎図で、仏・菩薩約二〇体、向かって左上から右下への斜め構図である。左下に川があり、右中少し下に家屋が描かれている。源信の描いた「迎接曼陀羅」は比丘衆が多く菩薩衆が少ないものであったというが、それがどのような図相であったかは明らかではない。しかし鎌倉時代末撰述の『四十八巻伝』に描くものは、「迎接曼陀羅」の一つの図相を示している。なお嵯峨清凉寺に法然が熊谷直実に与えたという正副二幅の「迎接曼陀羅」がある。副本は鎌倉時代末に描かれた正本を南北朝以降に模写したものである。
【参考】大串純夫『来迎芸術』(法蔵館、一九八三)
【執筆者:成田俊治】