規律にかなった外面的な威儀のことで、外相げそうともいう。密教では灌頂道場以外の儀式のことをさす。源信『往生要集』中には「或は頭を低たれ手を挙げ、或は声を挙げ名を称す。外儀異なりと雖ども、心念は常に存し、念々に相続して寤寐ごびにも忘ること莫なかれ」(浄全一五・八五下/正蔵八四・五六中)とある。法然は『往生要集詮要』の中でこれを釈して「此の文の意は、或いは観念、或いは称念、意楽いぎょうに任せ機根に随い無間に之れを修し、念々相続して寤寐にも忘ること莫れと勧進するなり」(昭法全五)とした上で、行の難易の点から称念を勧めている。
【執筆者:髙橋寿光】