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提供: 新纂浄土宗大辞典

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き/機

対象、能力、また能力を有する人。条件があれば発動する可能性のことであり、特に仏の教化を受ける衆生機根、あるいは衆生そのものを意味する。智顗法華玄義』六では、機には微の義、関の義、宜の義の三種があるとする。これは衆生には微かな善が存在し、この善が仏の慈悲と関わり、仏からよろしきを得るという理解によってなされたものである。また同『維摩経玄疏』四では「可発の義、これを名づけて機となす」(正蔵三八・五四三中)とあり、機は可発の意味であるとされる。聖冏も『糅鈔にゅうしょう』一一において、この理解を用いている。機に可発の意味があるということは、衆生は仏の説法に応じて発心する可能性を有しているということである。仏の説法は、様々な種類の衆生に対して、その一々に応じて行われ、これを対機説法という。浄土宗での機とは、念仏往生の対象というべきものであり、常に念仏を称えるものが最上の機である。また念仏往生の教えは機を選ぶということはなく、阿弥陀仏本願を信じ、念仏を称えれば、いかなる人であっても極楽往生できるということが法然の提示した機根観といえよう。


【資料】『諸人伝説の詞』、『念仏往生要義抄』、『往生大要抄』


【参考】服部英淳「機の論理」(同『浄土教思想論』山喜房仏書林、一九七四)


【参照項目】➡信機・信法仏辺・機辺


【執筆者:石田一裕】