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苅萱道心

提供: 新纂浄土宗大辞典

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かるかやどうしん/苅萱道心

—建暦二年(一二一二)、一説には建保二年(一二一四)。仏教説話として謡曲や説経浄瑠璃、絵解きにおいて語られる高野聖、もしくは善光寺聖の一人をいう。道心とは新たに発心した道心堅固な者のこと。関連する物語等によれば、筑前苅萱の庄の加藤左衛門じょう重氏(繁氏)は世の無常を感じ出奔しゅっぽん。仁平三年(一一五三)、黒谷法然のもとで発心弟子になり、苅萱寂照房等阿と名乗ったという。苅萱は肉親との再会を断じるため女人禁制高野山に向かうが、息子の石童丸いしどうまるが訪ねてきて、やがて出家。師弟となったが、親子であると知られるのを恐れ一人信濃善光寺に赴き、建暦二年、あるいは建保二年、八三歳で亡くなったという。この際、奇瑞があり、高野山にいた石童丸善光寺に赴いたとされる。苅萱にはさまざまな縁起談が交叉し、その存在は、むしろ庶民信仰上や文学の世界において評価されるべきであり、さらには中世における高野聖善光寺聖の交流を示唆する象徴として注目されよう。その際、その接点として法然が加えられる点に、庶民信仰における法然像の一面が窺える。


【資料】『蓮門精舎旧詞』二五


【参考】五来重『善光寺参り』(平凡社、一九八八)、『長野県史 通史篇三 中世二』(長野県、一九八七)、『信州の仏教寺院』二(郷土出版社、一九八六)、坂井衡平『善光寺史』下(東京美術、一九六九)


【執筆者:袖山榮輝】