—延宝四年(一六七六)九月二五日。幡量ともいう。典蓮社貴誉天爾。大本山光明寺四七世。正誉意天の弟子。浅草幡随院七世に住した後、延宝二年(一六七四)五月に飯沼弘経寺二〇世、同三年閏うるう四月に鎌倉光明寺四七世に転住、在住一年余で寂した。大玄の『五重綱要義』によれば、鎌倉光明寺の本山相承がすこぶる廃れているのを深く嘆き、増上寺の学頭の義誉連的(のちに深川霊巌寺五世)と共に鎌倉に至り、研究してようやく本山相伝を得たという。
【資料】『総系譜』上(浄全一九)、大玄『五重綱要義』
【参考】藤本了泰編『浄土宗大年表』(山喜房仏書林、一九九四)
【執筆者:原口弘之】