不観相貌専称名字
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ふかんそうみょうせんしょうみょうじ/不観相貌専称名字
仏の姿形を観察しないで、ただ専らに阿弥陀仏の名号を口に称えること。善導『往生礼讃』の前序において三心、五念門、四修をそれぞれ説明した後に、「『文殊般若経』に云うが如きは、一行三昧を明して唯、勧む、独り空閑に処して諸の乱意を捨て、心を一仏に係け、相貌を観ぜずして専ら名字を称すれば、即ち念の中に於て彼の阿弥陀仏及び一切の仏等を見ることを得」(浄全四・三五六上/正蔵四七・四三九上)と述べる。引用元の曼陀羅仙訳『文殊般若経』下では、一行三昧を説明する中で「即ち是の念の中に能く過去・未来・現在の諸仏を見ん」(正蔵八・七三一中)と諸仏名号の功徳として説かれているが、善導はこれを阿弥陀仏の名号としている。善導は続いて、観察をせずに専ら名号だけを称える意義は何かとの問いを立て、「衆生障り重くして、境細に心麤なれば、識颺り、神飛んで、観成就し難きに由ってなり。是れを以て大聖悲憐して直に勧めて専ら名字を称せしむ。正しく称名は易きに由るが故に相続して即ち生ず」(浄全四・三五六上/正蔵四七・四三九上~中)と答える。すなわち、今時の低劣な衆生が観察行を試みても成就するのは至難であるから、阿弥陀仏自身が大悲の心を発して称仏名号の易行による西方往生を勧めたという。良忠は『東宗要』(浄全一一・九七下)あるいは『往生礼讃私記』(浄全四・三八三上)において、善導が前序に挙げた五念門の一つである観察門を必須としないのは矛盾ではないかとの問いを立て、五念門どころか三心や四修もすべて一行三昧たる称名念仏に集約され、さらにはひたすら称名念仏を行ずることで総想帰依の念が自ずからそなわってくると答えている。その証拠として、法然が「源空が目には三心も南無阿弥陀仏、五念も南無阿弥陀仏、四修も南無阿弥陀仏なり」と述べていたことを挙げる。この言葉は聖光『授手印』の末尾(聖典五・二四〇/昭法全四五九)に引用され、また『四十八巻伝』にもその逸話が採録されており、浄土宗の要義である結帰一行三昧の重要な一文となっている。
【参考】服部英淳『浄土教思想論』(山喜房仏書林、一九七四)
【執筆者:工藤量導】