一八世紀頃、生没年不明。大愚と号す。江戸後期の学僧。信培湛慧が再興し、普寂徳門・僧敦大心と継承された浄土律院の洛西長時院四世。増上寺学寮時代には後の飯沼弘経寺五三世妙瑞と並ぶ宗学者として活躍した。妙瑞の『鎮西名目問答奮迅鈔』によれば、二祖聖光撰『浄土宗名目問答』の注釈に関して、「漸く近来に及びて縁山の中に於いて一奇師あり、名づけて白弁と号す。此の師宗部の学に遊息すること亦た年有るなり」(浄全一〇・四三五上)などと見え、その講義録に触発されたことが知られる。
【執筆者:長谷川匡俊】