廃仏毀釈
提供: 新纂浄土宗大辞典
はいぶつきしゃく/廃仏毀釈
仏教の教理や思想、寺院仏閣、仏像、僧侶などを排斥対象とした思想や行為。「排仏」や「棄釈」と表記する場合もある。「仏を廃し釈(迦の教法)を毀つ」と読み下す。日本における廃仏毀釈の歴史は古く、六世紀に仏教が伝来した当初、物部氏がとった行動がそれに当たる。その後、廃仏毀釈が行われた事例は数多くあるが、明治初年(一八六八)の神仏分離令に端を発した廃仏毀釈は運動と呼称されるほど全国各地で継続して行われ、日本仏教に大きな傷跡を残した。同令が発令されると近江坂本の日吉神社、石清水八幡宮、日光山などの諸大社で寺院からの独立が進む一方、増上寺や寛永寺などでは神社関係の諸施設が破壊されるなど神仏の分離が進められた。それと並行して寺院仏閣の統廃合や破壊、仏像、経典などの破却が全国的に行われた。その度合いには地域差があるが、松本藩、富山藩、津和野藩、伊勢神領、薩摩藩などが非常に激しかったとされる。浄土宗寺院も例外ではなく各地で大きな打撃を受けたと言われているが、詳細はいまだ不明である。福田行誡は、伝統仏教諸宗派の有志と「諸宗同徳会盟」を組織するとともにその盟主となり、政府に対して抗議を行い廃仏毀釈に対抗した。浄土宗を含めほとんどの教団では、護国護法と仏教国益を主張することで廃仏毀釈に対抗しようとしたがその効果は限定的であり、明治一〇年頃にようやく落ち着いたとされる。その一方で、廃仏毀釈が日本仏教界に覚醒をもたらした側面を見逃してはならない。さきの会盟では、廃仏毀釈の原因の一つに仏教界の堕落を指摘し、真の仏法を求めて僧風刷新を訴えた。浄土宗においては、福田や養鸕徹定らによって宗門体制の近代化が図られ、白旗派が名越派などを統合し一宗統治体制の強化が推進されるなどの一因となった。
【参考】安丸良夫『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』(岩波新書、一九七九)、辻善之助他編『新編 明治維新神仏分離史料』全一〇巻(名著出版、二〇〇一)
【執筆者:江島尚俊】