曇鸞
提供: 新纂浄土宗大辞典
どんらん/曇鸞
承明元年(四七六)—興和四年(五四二)?。玄忠大師。中国北魏時代の浄土教者。法然が浄土宗相承の祖師と定めた「浄土五祖」の初祖。後世(特に日本)の浄土教に大きな影響を与える祖師の一人。幷州雁門の生まれ。中国の仏教名山として名高い五台山の近くに育った曇鸞は、その霊験に打たれ、心に歓悦をおぼえ出家。いかなる師のもとで出家したかは不明。中国の古典にも造詣が深く、そして仏教においては、龍樹の著『中論』『十二門論』『大智度論』と提婆の著『百論』(以上を合して「四論」という)と仏性の教えの研究を極めた。修学を重ねること三十数年、曇鸞が五〇歳頃、手に取った『大集経』が難解であることを嘆き、注釈を加えることを志す。しかし志半ばにして病を患い、筆を止めて治療に専念。ほどなくしてその病も癒え、注釈作業を再開したが、生命には限りがあることを実感した曇鸞は、薬草などの研究を行い、長生きをする方法を習得したうえで、注釈を始めようと思い立つ。そして当時、茅山(江蘇省南京市付近)に居を構え、長生の法を研究していた陶弘景のもとを訪ね、修学を重ね、ついに『仙経』一〇巻(一説には『眞誥』といわれる)を授けられた。陶弘景のもとから郷土への帰途、当時の都である洛陽に立ち寄る。そしてインドから来たばかりの僧・菩提流支との接見の機会を得た。陶弘景のもとで長生の法を学んだばかりの曇鸞は『仙経』を手に取り、菩提流支に対し、「仏教の教えのなかで、この中国の『仙経』より優れた長生不死の方法はあるか」と尋ねた。それに対して菩提流支は「比べるどころのものではない。たとえ長生きしてもしばらく死なないだけである。結局は三界に輪廻するだけである」と述べ、『観経』を授けた。そして曇鸞は陶弘景からもらい受けた『仙経』をすべて焼き捨ててしまった。このような劇的な出会いをへて、曇鸞は浄土教へと帰依。その後研究と布教を重ね、多くの弟子や信徒を得た。北魏の皇帝は彼を尊敬し、「神鸞」と呼んだといわれる。そして勅命によって幷州の大寺に住し、さらに晩年は汾州の石壁玄中寺に移り住み、興和四年、病により平遥(山西省平遥県)の山寺において、六七年の生涯をとじた。著書に『往生論註』二巻、『讃阿弥陀仏偈』一巻、『略論安楽浄土義』一巻がある。
【参考】望月信亨『中国浄土教理史』(法蔵館、一九六四)、野上俊静『中国浄土三祖伝』(文栄堂書店、一九七〇)、道端良秀『中国の浄土教と玄中寺』(永田文昌堂、一九五〇)、藤堂恭俊『浄土仏教の思想四・曇鸞』(講談社、一九九五)
【参照項目】➡往生論註
【執筆者:石川琢道】