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道安

提供: 新纂浄土宗大辞典

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どうあん/道安

西晋・永嘉六年(三一二)—前秦・建元二一年(三八五)二月八日。釈道安弥天みてん道安とも称す。中国仏教における経典の注釈、経典目録作成、経典翻訳論、仏教儀礼教団規則制定など、あらゆる面において開拓者とされる僧。常山扶柳(河北省)に生まれる。本姓は衛氏。一二歳で出家し、のち鄴で仏図澄に出会い、その弟子となった。その後、戦乱のため各地を転々とすることを余儀なくされ、襄陽に至った。東晋・太元四年(三七九)、前秦王の苻堅が襄陽を攻略し、道安は捕虜として長安に送られた。それからは比較的安定した教化・研究の生活を得た。弟子には廬山慧遠・慧持の兄弟など多数。道安の業績は多岐に渡るが、最初の経典目録である『綜理衆経目録』を著し、訳経の時代、訳者を調査し、仏典の真偽を判別した。また『般若経』や禅観経典の研究を続け、多くの注釈書を著し、中国古典の用語や思想で仏教を説明する「格義」に否定的であった。また多数の経典の序文を書き、その中で「五失本・三不易」という翻訳論を説いた。教団規則の制定や仏教儀礼の整備を行い、仏教徒はすべて釈尊弟子であるとして、「釈」をもって姓とすることを主張し、以後、仏教徒は「釈」を付けることとなった。経典解釈における序・正宗・流通の三分科は道安の創設とされる。また『安楽集』上に『浄土論』という書からの引用があり、同文を引用している『群疑論』一では「安法師浄土論に説くが如き」(浄全六・一三上)としており、道安が撰者であると信じられていたようであるが、真偽は定かではない。


【資料】『出三蔵記集』一五(正蔵五五)、『高僧伝』五


【参考】宇井伯寿『釈道安研究』(岩波書店、一九五六)、塚本善隆『中国仏教通史』一(春秋社、一九七九)、鎌田茂雄『中国仏教史』一(東京大学出版会、一九八二)


【執筆者:曽和義宏】


六世紀頃、生没年不明。よう道安、北周の道安とも称して、弥天みてん道安と区別する。北周武帝の廃仏に先立つ仏・儒・道三教論争において、仏教の重要性を主張した。本姓は姚氏。『涅槃経』や『大智度論』を研究、講説した。『大智度論』研究は弟子である慧影の『大智度論疏』に受け継がれている。北周・天和四年(五六九)に始まる仏教儒教道教の論争の中で、同五年五月一〇日に、『二教論』を撰述して提出した。『二教論』では道教儒教に属すべきものであるとし、仏教儒教の重要性を主張した。しかし廃仏は断行され、道安は林沢に遁れた。『安楽集』上や『群疑論』一に引用される『浄土論』は弥天の道安の撰であるとされてきたが、姚の道安の撰とする説もある。


【資料】『歴代三宝紀』一一(正蔵四九)、『続高僧伝』二三(正蔵五〇)、『広弘明集』八、『集古今仏道論衡』乙(共に正蔵五二)


【参考】塚本善隆『北朝仏教史研究』(『塚本善隆著作集』二、大東出版社、一九七四)、鎌田茂雄『中国仏教史』三(東京大学出版会、一九八四)


【執筆者:曽和義宏】