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提供: 新纂浄土宗大辞典

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どう/道

さとりに至る道、仏道のこと。一般にⓈmārgaⓅmaggaⓉlamの訳が相当。末伽と音写する。仏教は当初より人がいかに生きるべきかの実践を教えることを標榜し、それは目的地をもった道とされてきた。『スッタニパータ』一一三〇では「最上の道」「彼岸に赴く道」(南伝二四・四二九~三〇)と表現され、実践としての修行は「道を得ること」(『同』五五、南伝二四・一九)とされた。この内容が最も明らかに現れているのが四聖諦ししょうたい中の道諦(Ⓢmārga-satya)および、その内容である八正道はっしょうどう(Ⓢāryāṣṭāṅgo-mārga)である。道諦八正道とは理想の境地に至るための八種(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進正念・正定)の修行道のことである。ただ、『サンユッタニカーヤ』転法輪品(南伝一六下・三四〇)などでは道諦の原語がⓅdukkhanirodhagāminī paṭipadāとなっており、Ⓟpaṭipadā(Ⓢpratipad)が道の意味に用いられる。『雑阿含経』一五(正蔵二・一〇三下)などでも「苦滅道跡聖諦くめつどうしゃくしょうたい」とされ、Ⓟpaṭipadāを道跡と漢訳している。また、中道ちゅうどうの原語もⓅmajjhimāpaṭipadā(『マッジマニカーヤ』法嗣経、南伝九・二三)であり、ここでもⓅpaṭipadāが用いられる。Ⓟpaṭipadāは目的に向かって進むことを意味し、これらの用例では「行道ぎょうどう」の意味で用いられていると考えられる。また、『俱舎論』二六(正蔵二九・一三七上)などの十六行相じゅうろくぎょうそう四聖諦観察する一六種の見方)の説明では、道聖諦は道(Ⓢmārga)、如(Ⓢnyāya)、行(Ⓢpratipat)、出(Ⓢnairyāṇika)の四相を持つともされる。


【参照項目】➡四諦八正道中道


【執筆者:榎本正明】


衆生がみずからのつくった業の報いとして趣く生存の状態、境界。趣ともいう。具体的には六道、もしくは阿修羅道を除いて五道という。今生に大小の善業をつくることにより、次生には阿修羅・人・天の境界へと趣き、同じく悪業により地獄餓鬼畜生の境界へと趣く。このように、善悪の業の報いが分かれており、しかも循環(輪廻)することから道という。前の三つを三善道(三善趣)といい、後の三つを三悪道三悪趣)という。


【参照項目】➡六道悪趣三界


【執筆者:齋藤蒙光】