曹洞宗
提供: 新纂浄土宗大辞典
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そうとうしゅう/曹洞宗
中国禅宗五家七宗の一つ、日本禅三宗の一派。宗名の由来については、禅宗の洞山良价の「洞」とその弟子の曹山本寂の「曹」をとり、倒置して曹洞宗と称したとする中国説、曹渓慧能の「曹」と洞山良价の「洞」をとって、曹洞宗と称したとする日本説がある。中国曹洞宗は唐末頃に成立し、中国禅宗(南宗)六祖慧能の禅脈を継ぎ、洞山良价(八〇七—八六九)と曹山本寂(八四〇—九〇一)を祖とし、偏正五位の思想を中心に教化活動を展開した。宋代に入ると、真歇清了(一〇八八—一一五一)と宏智正覚(一〇九一—一一五七)が現れ、真歇派と宏智派とに分かれた。真歇と宏智は、臨済宗楊岐派の大慧宗杲(一〇八九—一一六三)が看話禅を鼓吹したのに対し、黙照禅を唱えた。鎌倉時代に入宋した日本の道元は、真歇下の四代の法孫天童如浄(一一六三—一二三八)から法を嗣いで、安貞元年(一二二七)に帰朝した後、京都を中心に、深草の興聖寺僧団を開創した。寛元元年(一二四三)七月、越前に移住し、大仏寺を開いて、後に永平寺と改称し、永平寺僧団を開創した。道元は、みずからの宗旨を曹洞宗と称したことはないが、永平寺の二世孤雲懐奘、三世徹通義介を経て、義介の法嗣瑩山紹瑾(一二六八—一三二五)に至って、中国曹洞宗との伝承を注目され、日本曹洞宗の開祖として位置づけられた。同時に、瑩山紹瑾は総持寺を開き、教団の地方発展の基礎を築いた。中世の曹洞宗は、宗統復古運動を起こし、道元の著作を盛んに研究し、真の意味での道元教団として確立された。近世の曹洞宗は、幕府の寺院法度制度をもとに、全国の寺院を永平寺末、総持寺末とに配属し、両本山を中心とする本末制度を樹立した。明治維新後、新時代に即応するために、『曹洞教会修証義』(『修証義』ともいう)が編纂され、教団の僧侶や信者の信仰の統一をはかった。今日の曹洞宗は、道元を高祖、瑩山を太祖とし、道元が開いた永平寺、瑩山が開いた総持寺を両大本山と仰ぐ。寺院数約一万四千。
【参考】竹内道雄『曹洞宗教団史』(教育新潮社、一九七一)、伊吹敦『禅の歴史』(法蔵館、二〇〇一)
【参照項目】➡道元
【執筆者:林鳴宇】