覚愉
提供: 新纂浄土宗大辞典
2018年3月30日 (金) 06:21時点における192.168.11.48 (トーク)による版
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かくゆ/覚愉
保元三年(一一五八)—貞永二年(一二三三)正月三〇日。房号は住心、出阿。出雲路上人とも呼ばれる。天台宗寺門派の僧で、長西が法然滅後に師事し、諸行本願義を承けたとされる。文章生平康房の子で、良慶に天台を学び、慶範より密教を相承するなど寺門系の師に就いて修学した。四十余歳のときに三井寺を出て大和国光明山寺に入って三、四年を過ごした後、京に帰って出雲路(現・京都市北区南東部)に草庵を開いた。この前後に法然との交流があったと推測される。一切の経論を繙き、その学識は遠近に響いたという。覚愉の著作として、『略往生講式』『善導和尚類聚伝』『釈法忍伝』『十誓願』(以上『長西録』)等の書名が伝わるが、いずれも現存していない。京都寺町の廬山寺は覚愉の出雲路の草庵に由来するという。なお、法然滅後に覚愉に師事した長西について『四十八巻伝』等は「背師自立」と否定的な評価を下しているが、信瑞『明義進行集』三では、覚愉は法然の「無観称名義」を正しく継承した念仏者として描かれており、覚愉に対する捉え方、位置付けには大きな違いがある。
【資料】『明義進行集』三
【参考】吉田淳雄「出雲路の住心房覚愉について」(『小澤憲珠名誉教授頌寿記念論集 大乗仏教と浄土教』ノンブル社、二〇一五)
【参照項目】➡廬山寺
【執筆者:吉田淳雄】