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無懺称名

提供: 新纂浄土宗大辞典

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むさんしょうみょう/無懺称名

過去の罪や悪業懺悔することなく口称念仏すること。懺悔することによって犯した罪や悪業が滅せられ清浄となるが、念仏する者はことさらに懺悔を行わなくても、念仏そのものに滅罪功徳があるということである。『観経下品上生に「智者また教えて、合掌叉手しゃしゅして南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するが故に、五十億劫生死の罪を除く」(聖典一・三一〇/浄全一・四九)とあり、また下品下生にも「かくのごとき愚人、命終の時に臨んで、…かくのごとく至心に、声をして絶えざらしめ、十念具足して、南無阿弥陀仏と称す。仏名を称するが故に、念々の中において、八十億劫の生死の罪を除く」(聖典一・三一二/浄全一・五〇)とある。法然は『選択集』一一に「ただ念仏の力のみ有って、能く重罪を滅するに堪えたり」(聖典三・一六一/昭法全三三七)と述べている。しかしこれは念仏者における懺悔を否定しているのではない。法然は『九条兼実の問に答ふる書』において「たとい小罪を犯すとも、もし懺悔せざるときは、則ちなお往生さわりとなる。いわんや四重五逆の重罪を犯して、しかも懺悔を用いざるもの、あに往生を得べけんや」(昭法全六〇八~九)と説いているように、たしかに無懺称名往生できるとはいえ、自己の罪深さを認めて日々反省しつつ念仏を称えることを重んじるのが宗祖の立場である。


【資料】『浄土述聞追加口決鈔』


【参照項目】➡念仏と懺悔


【執筆者:齊藤隆信】