厭求
提供: 新纂浄土宗大辞典
2018年3月30日 (金) 06:20時点における192.168.11.48 (トーク)による版
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えんぐ/厭求
寛永一〇年(一六三三)二月四日—正徳三年(一七一三)六月一一日。真蓮社広誉心阿。諱はもともと貞憶であったが後に厭求と改める。江戸時代前期の学僧。京都に生まれる。一三歳の正保二年(一六四五)出家を志し専念寺信誉に師事して得度した。一七歳の慶安二年(一六四九)江戸に上り霊巌寺の珂山から宗戒両脈を相承した。しかしながら明暦三年(一六五七)正月の大火による被害の甚大さを目の当たりにし、世の無常と三途八難の苦を痛感したという。以降、一寺院に止住することはせず、近畿・東海・中国から奥羽まで、日本各地を行脚して回り民衆教化に尽力した。その間万治二年(一六五九)には、母のために有馬で湯治を行い、当地の極楽寺に入寺することとなった。母の没後に寺を辞し行脚を続けながら、先々の寺院の興隆に尽力した。今日の文書伝道の先駆けともいわれる「厭求和尚法語」を著すほか、彫刻や絵画にも精通したとされ、晩年は日課念仏百万遍を満たし、三河国岡崎の草庵で寂した。世寿八二歳。
【資料】『厭求上人行状記』(浄全一八)
【執筆者:笹田教彰】