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吞龍

提供: 新纂浄土宗大辞典

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どんりゅう/吞龍

弘治二年(一五五六)四月二五日—元和九年(一六二三)八月九日。源蓮社然誉大阿故信十八檀林太田大光院開山。子育て吞龍として有名。武蔵国埼玉郡一ノ割村(埼玉県春日部市)に井上信貞の二男として生まれた。一四歳で同郡平方村林西寺岌弁について出家し、はじめは曇龍と称した。元亀元年(一五七〇)増上寺に入って修学し、存貞円也存応に師事した。やがて林西寺住職となり、慶長五年(一六〇〇)武蔵国滝山大善寺三世となって同檀林の基礎を固めた。また、存応の片腕として廓山了的などとともに宗政にも参画した。同一八年に大光院が建立されると、徳川家康の命により開山として入寺し、子弟の教育に専念した。元和二年(一六一六)国禁を犯した一郷士ごうしをかくまったことを譴責けんせきされ、辞山して信州小諸に隠棲していたが、同七年一月免除されて帰山。翌八年には常紫衣綸旨りんじを賜った。吞龍は、生活困窮者の子供を引き取って撫育ぶいくするなど庶民救済に尽力し、子育て吞龍として尊敬され、今も人々に信仰されている。


【資料】『義重山開祖然誉大阿吞龍上人伝』『鎮流祖伝』六(共に浄全一七)、『新田大光院志』(浄全二〇)


【参考】玉山成元『普光観智国師』(白帝社、一九七〇)、太田市史編さん委員会『太田市史』通史編近世(太田市、一九九二)、堤邦彦『江戸の高僧伝説』(三弥井書店、二〇〇八)、橋本豊治画・粂原恒久文『人間愛に生きた子育吞龍上人絵伝』(吞龍上人絵伝刊行会、二〇〇六)


【参照項目】➡大光院雨乞い吞龍


【執筆者:𠮷水成正】