有漏浄土
提供: 新纂浄土宗大辞典
2018年3月30日 (金) 06:20時点における192.168.11.48 (トーク)による版
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うろじょうど/有漏浄土
煩悩が残存している浄土。無漏浄土の対。懐感の『群疑論』によれば、凡夫の心識が煩悩を断じ尽くしていない以上、変現するその浄土も有漏であるとするが、これは浄土の三界摂不摂の問題と同時に論じられていることに注目しなければならない。懐感は、たとえ凡夫の変現する浄土が有漏であったとしても、阿弥陀仏の本願力によって三界を超えた他受用土(報土)に往生せしめられ、したがってその浄土は有漏ではあっても三界の有漏とは異なり、諸悪や憂いは全くないとする(浄全六・八下〜九下)。曇鸞は『往生論註』において、冰上然火の譬喩(然は燃の意)をもって、凡夫の浄土に生まれたいと願う見生(有漏なる執着)が強ければ強いほど、速やかに見生の火が消えて無生の浄土に往生できると説く(浄全一・二四六上)。このように見ると、懐感の有漏浄土の立場は曇鸞の主張に相通ずるものである。また迦才は『浄土論』において、有漏なる凡夫にとって浄土は三界摂であるからこそ往生しやすいと説く(浄全六・六三二下)。これは懐感の主張とは違っている。浄土宗の説く浄土は、善導・法然の主張する阿弥陀仏の本願他力に乗じて果たされる凡入報土である。懐感が心識の変現を説く立場をとるのは、法相宗に対しての説明のためである。
【執筆者:村上真瑞】