湛空
提供: 新纂浄土宗大辞典
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たんくう/湛空
安元二年(一一七六)—建長五年(一二五三)七月二七日。正(聖)信房と号す。法然の門弟。生地は京都で、左大臣徳大寺実能の孫にあたり、法眼円実の息。天台の比叡山を初学の地として六六世天台座主実全に師事して公全と称したとされ、顕密二教を修学した。しかし、後に聖道門を離れ法然に帰依し専修念仏につとめる。そして法然とその門弟の長老である信空から、それぞれ円頓戒を相承されていて、事理の二戒を相伝したといわれる。土御門天皇に授戒をし、その遺骨を嵯峨の二尊院の塔に納めたとされる。元久元年(一二〇四)一一月七日の、『七箇条制誡』の法然門下一九〇名の署名者のうちには名前が見えず、常随の弟子としては疑問視されるが、建永二年(一二〇七)法然が配流の折には随従したとされている。建暦二年(一二一二)法然の中陰供養にあたっては、三七日忌の施主をつとめている。その後、二尊院に住して念仏を勧め、そのためその門流を嵯峨門徒と称し、門弟には叡澄、恵尋、信覚、覚空などがいる。嘉禄の法難(一二二七)によって転々とした法然の遺骨を、天福元年(一二三三)西山粟生野の幸阿弥陀仏の庵から迎え、二尊院に宝塔を造り安置して、その後も供養を続けた。寛元二年(一二四四)六九歳のとき、法然の三三回忌に合わせ、それまでの法然の伝記をまとめ詞書を草して、『本朝祖師伝記絵詞』(『四巻伝』)を制作している。また後鳥羽院の中宮修明門院重子の帰依を受け、空海が唐から投げたところ高野山に落ちたという飛行三鈷を賜るが、晩年高野山に返納したとされる。建長五年七月二七日寂。七八歳。
【資料】『空公行状』(碑文)、『尊卑分脈』一(『新訂増補国史大系』五八)、『法水分流記』『蓮門宗派』(野村恒道・福田行慈編『法然教団系譜選』青史出版、二〇〇四)、『四十八巻伝』四二、四三(聖典六)、『四巻伝』奥書(法然上人絵伝集成一『本朝祖師伝記絵詞(善導寺本)』)、『高野春秋編年輯録』八(新校『高野春秋編年輯録』)
【参考】三田全信『成立史的法然上人諸伝の研究』(平楽寺書店、一九七六)
【執筆者:野村恒道】