稲岡覚順
提供: 新纂浄土宗大辞典
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いなおかかくじゅん/稲岡覚順
明治三八年(一九〇五)一一月九日—平成七年(一九九五)一〇月八日。成蓮社等誉正阿不無為。金戒光明寺七二世。山梨県中巨摩郡西条村(現・昭和町西条)の浄慶寺住職稲岡正順の子として生まれる。その後義兄である曽根義順を師として出家、大正一五年(一九二六)三月宗教大学教育学部を卒業、さらに大正大学に入学し昭和四年(一九二九)三月に国文学科を卒業した。昭和二年(一九二七)埼玉県川口市西福寺の住職を拝命。同二〇年より浄土宗宗議会議員として同五四年一一月まで宗政に参画した。この間、昭和三六年(一九六一)から宗議会議長を二期、同四六年からは宗務総長を二期務め、総本山知恩院顧問、教誨師会理事長、大正大学・佛教大学の理事長を歴任。浄土宗芸術家協会の設立、地方教化センターや沖縄袋中園、修練道場黒谷寮・浄山学寮および明照会館の設置等に尽力し、善導大師一三〇〇年遠忌(同五五年)にあたっては、日中浄土宗協会を設立するなど宗門の発展のために多くの業績を残した。また、黒谷浄土宗との合同にも力を注ぎ、同五二年一一月には浄土宗との合同を実現させた。同五四年一二月には金戒光明寺法主となり、平成六年(一九九四)まで勤めた。昭和五三年(一九七八)三月、勲三等銀杯拝受。
【執筆者:曽根宣雄】