「信瑞」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:25時点における最新版
しんずい/信瑞
—弘安二年(一二七九)一〇月。房号は敬西房。隆寛と信空に師事して浄土宗を学んだほか、泉涌寺俊芿にも師事。洛東弘願寺を住房とした。嘉禎二年(一二三六)『浄土三部経音義集』四巻、寛元二年(一二四四)『泉涌寺不可棄法師伝』一巻を著した。また建長八年(一二五六)諏訪氏人上原敦広の請いに応じて著した『広疑瑞決集』五巻では、諏訪信仰や殺生禁断の問題を論じ、文永一二年(一二七五)以前成立の『明義進行集』三巻(巻一欠)では、法然の化導にしたがい諸宗の学匠が無観称名を行って往生を遂げたことを主張している。音義や浄土教学、神祇信仰など広範な問題を典籍を渉猟しながら説くことのできる学僧であった。『四十八巻伝』二六によると、弘長二年(一二六二)鎌倉へ下り北条時頼に「上人の伝」(聖典六・四〇〇)を進呈し、翌年諏訪入道蓮仏(諏訪盛重)は北条時頼の往生の様子を信瑞に消息で知らせたという。これは現存しないが信瑞著の『法然上人伝』一巻であり、同じく失われた『明義進行集』一との関係が問題とされている。『法水分流記』によると弟子に照道、法西がいた。
【参考】伊藤唯眞「中世武士の撫民思想と念仏者の治世論—信瑞の『広疑瑞決集』をめぐって—」(『浄土宗史の研究』伊藤唯眞著作集四、法蔵館、一九九六)、大谷大学文学史研究会編『明義進行集 影印・翻刻』(同、二〇〇一)
【参照項目】➡無観称名
【執筆者:善裕昭】