「青蓮院」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:25時点における最新版
しょうれんいん/青蓮院
京都市東山区粟田口三条坊町。天台宗の門跡寺院で粟田御所、東山御所とも呼ばれる。最澄が比叡山の東塔南谷に建立した青蓮坊にはじまり、院政期に行玄が鳥羽院の帰依を受けると、その后美福門院の祈願所とし青蓮院となる。これは山上本坊であるが、寺院機能は洛中本坊を主とし、鎌倉時代には三条白川坊や吉水坊に置かれて熾盛光堂や大懺法院が建てられた。のち十楽院に移されこの地で現在の青蓮院に発展する。行玄が青蓮院の実質的初代で、彼のもとに覚快(鳥羽院皇子)が入室して天皇家・摂関家の入寺が恒常化し門跡の地位を確立、歴代門主は天台座主や護持僧に任じられた。門主は台密三昧流を継ぎ修法を習得して朝廷・公家の祈禱を盛んに行った。中世には傘下に脇門跡や院家をかかえ膨大な門跡領を有し、天台三門跡の一つとして勢力を張る。寺宝の不動明王画像(国宝)は青不動と呼ばれる優品で、吉水蔵には平安時代以来の台密聖教が数多く伝来する(国重要文化財)。浄土宗とも関わり深く、慈円門主のとき営作された吉水坊は、法然の吉水の禅房とは極めて近い位置関係にあったと考えられる。法然の最晩年の住まい大谷の禅房(現・知恩院勢至堂)は青蓮院領内に慈円が差配したもので、その東側崖上に造られた法然廟堂が嘉禄の法難で破壊されたため、信空は時の門主良快に改葬を申し入れている。
【資料】『門葉記』、『華頂要略』
【参考】『村田正志著作集第五巻 国史学論説』(思文閣出版、一九八五)、『青蓮院門跡吉水蔵聖教目録』(汲古書院、一九九九)、下坂守『中世寺院社会の研究』(思文閣出版、二〇〇一)、河音能平・福田栄次郎編『延暦寺と中世社会』(法蔵館、二〇〇四)
【執筆者:善裕昭】