「悟真寺」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ごしんじ/悟真寺
一
大本山光明寺の前身名。正嘉元年(一二五七)頃下総から鎌倉入りした良忠は、はじめ大仏谷に寓居したが、間もなく北条(大仏)朝直の支援を得て佐介ヶ谷に悟真寺を創建した。良忠の『伝通記』一には王古『新修浄土往生伝』を基本に善導伝を綿密に考証した過程が読みとれ、同伝中の大師が終南山悟真寺に隠棲したとの故事に因んで寺名を決めたものと考えられる。そののち蓮華寺と改名され、やがて現在の材木座海岸へ移転して今日の光明寺が誕生した。
【資料】道光『然阿上人伝』(慶安版、『三上人研究』三上人御遠忌記念出版会、一九八七)
【参考】大橋俊雄『三祖良忠上人』(神奈川教区教務所、一九八四)
【参照項目】➡光明寺一
【執筆者:成瀬隆純】
二
愛知県豊橋市関屋町。孤峯山浄業院。三河教区№一。開山は善忠。後光厳天皇の勅願所。浄土宗藤田派四代唱名の高弟であった善忠が、貞治五年(一三六六)に、足利義詮に請うて建立した。のち兄弟弟子の教蔵が二世を継ぐ。善忠・教蔵二代のうちに建立された塔頭は、善忠院・法蔵院のほか、数箇寺に及ぶ。天正一八年(一五九〇)、関白豊臣秀吉の命で三河国吉田城に池田輝政が入り、城郭の整備のため、当寺を関屋の現在地へ移転させ、跡地を城郭に組み込んだ。江戸時代には、将軍や朝鮮通信使の宿所となっている。明治以降は、三河裁判所や小学校、日露戦争時の俘虜収容所としても用いられ、明治帝行幸の行在所としての聖蹟もある。昭和二〇年(一九四五)、豊橋空襲にて源信作の寺伝を持つ本尊以外は全焼したが、戦後再建されている。
【資料】『蓮門精舎旧詞』四八
【執筆者:水谷浩志】
三
三重県鈴鹿市白子本町。終南山光明院。伊勢教区№三六。応永一八年(一四一一)定誉良賢開山。触頭であった。浄誉祐清によって現在の場所に移される。応仁の乱の戦火で焼失。現在の本堂は元禄一四年(一七〇一)再建、改修されたもの。境内には、徳本の六字名号碑や光明真言碑がある。
【資料】『蓮門精舎旧詞』一四(続浄一八)、『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)
【執筆者:横井大覚】
四
⇨檀王法林寺(だんのうほうりんじ)
五
長崎市曙町。終南山光明院。長崎教区№四。キリシタン色のきわめて強かった長崎における最古の寺。慶長三年(一五九八)に浄土宗の再興を期し久留米善導寺から聖誉玄故が長崎に来て創建した。明の商人欧陽華宇・張吉泉の帰依を受けて華僑の菩提所となり、唐人墓地が開設された。その後長崎に来航したオランダ、ロシアなど各国の死没者も埋葬されるようになった。現在も稲佐悟真寺国際墓地として、寺院境内に仏教、キリスト教、イスラム教、道教の墓地が併存する珍しい形態となっている。
【参考】『長崎市史』地誌編仏寺部(清文堂出版、一九二三)
【執筆者:石上壽應】
六
中国陝西省西安市藍田県。終南山悟真寺。浄影寺慧遠や曇遷に師事した浄業により隋の開皇年間(五八一—六〇〇)に開創されたとされる寺院。浄業ののちに慧超、法誠、慧因、保恭らが住持し、創始期は法華三昧実修の道場であったが、迦才『浄土論』下(浄全六・六五六下)で貞観九年(六三五)に方啓が阿弥陀仏を念じたという記録以降、各種往生伝では浄土教と深いゆかりのある寺院として名を高めた。善導も悟真寺にて観想を修したとされるが、これは『新修往生伝』(第二伝)にのみ伝わっている。
【資料】『続高僧伝』一二、二八(正蔵五〇)、『類聚浄土五祖伝』(昭法全)
【参考】成瀬隆純「終南山悟真寺考」(『東洋の歴史と文化—佐藤成順博士古稀記念論文集』山喜房仏書林、二〇〇四)
【執筆者:石上壽應】