「虎角」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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こかく/虎角
天文八年(一五三九)—文禄二年(一五九三)二月四日。穏蓮社安誉。字は雲潮。戦国時代の学僧で下総国生実(千葉市)大巌寺二世。甲斐国府中(甲府市)生まれ。俗姓は飯田氏。代々戦国大名武田氏に仕えたが、武田氏滅亡により武蔵国品川に逃れ、やがて一族の縁をたよって上総国中島村に移った。一三歳のとき、貞把の講義を聴きその門弟となり、貞把が増上寺九世となるとそれに随従。また、貞把の指示により大巌寺の建設に尽力した。二五歳で貞把から宗脈を、翌年戒脈を授けられた。天正のはじめ頃、武蔵国岩槻浄安寺の住職をしていたが、呼び戻されて大巌寺二世となる。その後、師貞把から受けた五重と五重口伝を弟子たちに授け、さらに天正一六年(一五八八)正月二九日には関東の檀林ではいち早く別時念仏法度を制定するなどして多くの弟子を養成した。その中には、雄誉霊巌、琴誉盛林、円誉潮流などがいる。同一八年七月には寺領一八貫文余が徳川家康から安堵され、経済基盤が安定した。著書には『二蔵義序』『浄土四義私』『六祖勘文頌』等があり、後々檀林教学に影響を与えた。虎角が開山した寺院には、武蔵国戸塚村(埼玉県川口市)三仏寺、下総国青戸村(東京都葛飾区)法問寺、上総国大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)桜谷寺等がある。
【資料】『鎮流祖伝』五(浄全一七)、『略伝集』(浄全一八)、『生実大巌寺志』(浄全二〇)
【参考】宇高良哲「徳川家康の関東移封時期に関する一考察」(『法然学会論叢』二、一九七八)
【執筆者:𠮷水成正】