「岸上恢嶺」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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きしがみかいれい/岸上恢嶺
天保一〇年(一八三九)八月八日—明治一八年(一八八五)二月一五日。曠蓮社廓誉。字を痴堂。明治初期の学匠にして布教の大家。尾張の人。同地の文嶺に就いて得度、安政元年(一八五四)一六歳で増上寺遊学。山下現有に就いて宗学を研鑽し、翌二年、慧厳より宗戒両脈を相承。また増上寺の晃誉龍成、泉涌寺の旭雅から唯識を、楠玉諦から俱舎の教学を学んだ。後、郷里に戻り、五ヶ年をかけて漢学を修める傍ら大蔵経の閲覧読破に努めた。二六歳で再び増上寺に上り、明治元年(一八六八)芝岳学寮青龍窟の学寮主となる。維新後の宗学の不振を遺憾とし、同三年東西両京に浄土宗教校を設立することを提唱し、両教校設立後は司教として自ら東部教校において宗学を講義し、宗侶の育成に尽力した。同一一年四〇歳のとき、養鸕徹定の要請を受けて西部教校の教授に就任、以後も学生の育成と布教伝道に従事した。同一六年より宇治の平等院住持、翌年当局との意向相容れず西部教校を辞す。同一八年世寿四七歳で遷化。著書多数。中でも『説教帷中策』九巻は、讃題・法説・譬喩・因縁・合釈と次第する浄土宗の説教の範を示した画期的書物であり、当時宗派を問わず布教家必読の書とされた。他に『随意説教』二巻、『科図因明入正理論註疏』一巻、『科註原人論』一巻、『釈門小字典』一巻、『蓮門必携』二編、『選択本願念仏集纂註』五巻、『科註原人論講義』五巻等の著書がある。
【参考】『略伝集』(浄全一八)、大橋俊雄『浄土宗人名事典』(斎々坊、二〇〇一)、藤堂恭俊「岸上恢嶺の著作刊行とその時代背景」(『浄土宗学研究』四、知恩院浄土宗学研究所、一九六九)
【参照項目】➡説教帷中策
【執筆者:八木英哉】