「九条兼実」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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くじょうかねざね/九条兼実
久安五年(一一四九)—建永二年(一二〇七)四月五日。平安から鎌倉期にかけて活躍した貴族。関白藤原忠通の第三子で、近衛基実・松殿基房は異母兄、天台座主慈円は同母弟。通称は月輪殿、後法性寺殿、また出家名を円証という。藤原五摂家の一つ九条家の始祖。一六歳で内大臣、二年後には右大臣に任じられるなど、順調に貴族としての出世の道を歩んだ。その後、二〇年間は、右大臣として、近衛・松殿両兄に制せられながらも、摂関の地位への野心を持ち、朝廷・摂関家・平氏への批判と、自身の政治的理想の表明がなされている。その後、三八歳のとき、源頼朝に忌避された近衛基通が失脚し、代わって兼実が摂政・藤氏長者となり、長男良通は内大臣に任じられた。頼朝の支持を得て、太政大臣から関白に進み、望みの出世を遂げた。兼実の政治手法は、貴族でありながら武家政権へと接近し、公武関係の中で貴族の権勢を伸ばすことにあったが、宮廷や近衛家からは、武家政権の傀儡という視線を向けられていた一面がある。建久七年(一一九六)には、九条家の政敵源通親の策略、いわゆる「建久の政変」により、兼実一族は失脚する。晩年は失意の中で九条家の再興とともに極楽往生を願い称名念仏にはげみ、建永二年往生の素懐を遂げた。信仰に関しては、真言・天台・法相・浄土などの諸宗に通じており、天台宗の仏眼信仰や法相宗の信仰にも関心を寄せている。特に兼実は、若い頃から病弱であったため往生を目的として、『阿弥陀経』所説の七日念仏を行っていた。これが後に法然の教えに帰入していく素地になったと思われる。法然との親交については、兼実の残した日記『玉葉』によると、長男良通が急逝した失意の中にあって、文治五年(一一八九)八月一日に、兼実は法然を請うて、法文語や往生業について談じたことが初見となる。以後法然は、毎年恒例の念仏会の戒師を務めるようになり、兼実の女房にも授戒するなど、親交を深めていったと思われる。また娘である宜秋門院と兼実自身は法然を戒師として出家している。建永の法難の際、法然らの弁護や処置の軽減を図るも功を奏さなかった。この事件は、兼実の老身に大きな衝撃を与え、法然の帰京を見ることなく生涯を閉じた。
【参考】多賀宗隼『玉葉索引』(吉川弘文館、一九七四)
【執筆者:東海林良昌】