「万徳所帰」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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まんどくしょき/万徳所帰
南無阿弥陀仏の名号の中に、阿弥陀仏のすべての功徳がおさめられているということ。勝劣の義の中に示される。『選択集』三には、「名号はこれ万徳の帰する所なり。然ればすなわち弥陀一仏の所有る四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の一切の外用の功徳、皆ことごとく阿弥陀仏の名号の中に摂在せり。故に名号の功徳最も勝とす」(聖典三・一一八/昭法全三一九)と説かれている。源信は『観心略要集』において「空仮中の三諦、法報応の三身、仏法僧の三宝、三徳、三般若、此の如き等の一切の法門、悉く阿弥陀の三字に摂す。故に其の名号を唱ふれば則ち八万の法蔵を誦し、三世の仏身を持つなり」(『恵心僧都全集』一・二二七)と述べ、永観は『往生拾因』において「弥陀の名号の中にすなわち彼の如来の初発心より、乃至仏果まであらゆる一切の万行万徳皆悉く具足して欠減あることなし。弥陀一仏の功徳のみにあらず。また十方諸仏の功徳を摂す。一切の如来は、阿字を離れざるを以ての故に。此に因りて、念仏の者は諸仏に護念せらる。今此の仏号は文字少なしと雖も、衆徳を具足す」(浄全一五・三七二上)と述べているが、これらはいずれも阿弥陀仏の名号の中に「すべての法」「すべての功徳」という有漏無漏のあらゆる功徳が摂在することを意味するものである。これに対して法然のいう万徳とは、阿弥陀仏の内証と外用の功徳を指すものであり、内容が異なっている。また、万徳所帰は、勝劣の義の中で説かれているように、阿弥陀仏が劣である余行(諸行)を選捨し、勝としての念仏を選取するという、阿弥陀仏の選択によって成立しているものである。
【参考】末木文美士『鎌倉仏教展開論』(トランスビュー、二〇〇八)、深貝慈孝『中国浄土教と浄土宗学の研究』(思文閣出版、二〇〇二)、曽根宣雄「法然上人の万徳所帰論について」(『仏教論叢』五四、二〇一〇)
【執筆者:曽根宣雄】