「澄円」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ちょうえん/澄円
正応三年(一二九〇)—応安五年(一三七二)七月二五日。旭蓮社。浄円、智演ともいう。和泉国堺の人。父は源義氏の裔、大鳥国刺史義貞、母は百済氏という。九歳にして東大寺円雅について出家し、華厳・三論・唯識・俱舎などを修める。叡山に登ると承遍、観豪について天台を究め、禅要を虎関師錬に訪ねた。浄土を志してからは小坂および九品の流義を学び、さらに鎌倉光明寺で良暁、定慧について白旗の正流を受けて門弟となった。文保元年(一三一七)渡元し廬山の東林寺で普度に会い禅浄双修し、元亨元年(一三二一)廬山慧遠所持の蓮華炉などを携えて帰朝。正中元年(一三二四)後醍醐天皇に奏請して堺に廬山白蓮社の風を模し旭蓮社大阿弥陀寺を創建し般舟三昧を修した。康永元年(一三四二)悪疫が流行したときには光明天皇より穣災を命ぜられ、その労に対して菩薩号および扶桑廬山の宸額を下賜された。また夢窓疎石『夢中問答』に反駁して『夢中松風論』一〇巻を、虎関師錬『宗門十勝論』に対して『浄土十勝箋節論』一四巻を著すなど著述と講経につとめた。その他『浄土十勝論輔助義』四巻、『獅子伏象論』六巻などの著作がある。
【資料】『鎮流祖伝』四(浄全一七)、『総系譜』上(浄全一九)、『新撰往生伝』三(浄全一七)、『本朝高僧伝』一七(仏全一〇二)
【参考】三田全信『改訂増補 浄土宗史の諸研究』(山喜房仏書林、一九八〇)
【執筆者:永田真隆】