「一生果遂・三生果遂」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:19時点における最新版
いっしょうかすい・さんしょうかすい/一生果遂・三生果遂
四十八願中の第二十係念定生願をめぐる論点の一つ。諸々の徳本を植えることによって、現在のこの一生の命終後にただちに往生できるというのが一生果遂、生まれかわって三度目に往生を遂げるというのが三生果遂である。「果遂」の語は、第二十願の「もし我れ仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、諸もろの徳本を植え、至心に回向して、我が国に生ぜんと欲せんに、果遂せずんば、正覚を取らじ」(聖典一・二二七/浄全一・八)に由来する。浄土宗では、第二十願は三生果遂の立場と見る。法然は『十七条御法語』(昭法全四六八)で、第二十願を三生以内で果遂する願だと解釈している。良忠は『東宗要』二(浄全一一・四五上~八下)で、第二十願を「繫念定生」の願といい、「遠生果遂の願」ともいっている。また第二十願を、諸々の徳本を植える、至心に回向する、我が国に生ずる、の三に分け、各々が三生に配分されるとする。その配分について同書では、過現門と現未門の二門に分け、前者では過去・現在・未来の三生が、後者では現在・未来の第二生・未来の第三生の三生が、それぞれ配分されるとしている。真宗においては、三生にわたって聞名、化土往生、報土往生を順次果たしてゆくととらえる見解(三生果遂)と、一生の中で十九願から二十願へ、二十願から十八願への三願転入を果たすと見る立場(一生果遂)がある。
【執筆者:岸一英】