「悪趣」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:17時点における最新版
あくしゅ/悪趣
輪廻における悪しき境界。ⓈdurgatiⓅduggatiⓉngan ’gro。悪道や悪処ともいわれる。悪趣は、たとえば『無量寿経』に「ただ衆悪を作して、善本を修せず。皆悉く自然に、諸もろの悪趣に入る」(聖典一・二七五~六/浄全一・三一)とあるように、悪い行いをした者が趣く所である。これには三悪趣、四悪趣、五悪趣の種類がある。①三悪趣は、地獄・餓鬼・畜生の三つの趣のことで、「さんなくしゅ」とも発音する。三塗あるいは三途ともいう。地獄・餓鬼・畜生の三つの境界は、多くの仏典において悪趣と名づけられている。②四悪趣は、三悪趣に阿修羅を加えたもので、大乗の経論を中心に説かれる。ただし阿修羅は善趣とされることもあり、経論によって理解に相異のあることがうかがわれる。③五悪趣は『無量寿経』に「横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉じ」(聖典一・二六〇/浄全一・二四)とあることによる。『安楽集』はこれについて「娑婆の五道を斉く悪趣と名づく。地獄、餓鬼、畜生は純悪の帰するところ名づけて悪趣となす。娑婆の人、天は雑業の向かうところ、亦、悪趣と名づく」(浄全一・七〇四上/正蔵四七・一八下)と説明し、輪廻そのものを悪と見て、輪廻の境界である地獄・餓鬼・畜生・人・天のすべてを悪しき境界とする。他方、極楽には三悪趣が存在せず、また命尽きた後に三悪趣に生まれることもないという。これは阿弥陀仏の本願、すなわち第一無三悪趣願と第二不更悪趣願によるものである。念仏者の目指すところは、このような阿弥陀仏の国土への往生であり、その志を持って念仏を称えることが肝要である。すなわち法然が「今生の為に身を貪求するは、三悪道の業となる。往生極楽の為に自身を貪求するは、往生の助業となるなり」(聖典六・七〇五/昭法全四六三)と述べるように、ただ生活を営むだけでは三悪道に落ちる行為となっても、往生を目指し念仏を称える者には、それが往生のための助けとなりえるのである。
【執筆者:石田一裕】