「正念」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:25時点における最新版
しょうねん/正念
一
八正道の一つ。正しく心に思いとどめること、邪念を離れてありのままの姿や本性を正しく心に思いとどめて記憶すること。
【参照項目】➡八正道
【執筆者:南清隆】
二
浄土教においては、心が散乱したり、顚倒したりすることのない安定した境地のことをいう。臨終に際する衆生の心のありさまを表すものとして説かれることが多い。法然は『浄土宗略抄』において「ただの時よくよく申し置きたる念仏によりて必ず仏は来迎したまうなり。仏の来たりて現じたまえるを見て正念には住すと申すべきなり。それに前の念仏をば空しく思いなして由なき臨終正念をのみ祈る人の多くある、ゆゆしき僻胤の事なり」(聖典四・三五八/昭法全五九六)と述べて、正念来迎(衆生が正念であるが故に阿弥陀仏の来迎がある)ではなく、来迎正念(衆生を正念に導くために阿弥陀仏が来迎する)であることを明らかにしている。これは、罪悪生死の凡夫にとって自力で正念の境地に入ることは困難であるものの、念仏衆生の臨終には阿弥陀仏が正念の境地へと導くために来迎し、浄土に引接することを明らかにしたものである。
【執筆者:曽根宣雄】
三
生没年不明。聖光の門弟とされることから恐らくは一三世紀中頃の人か。はじめ蓮華谷の明遍のもとで顕密の教えを学び、続いて長州敏覚のもとで三論を学んだ。聖光の門に入り、妖女の念仏往生の祥瑞を聞き涙を落とし、本願の教えの玄妙なることに感嘆したという。良忠とも同門で共に一日間論談したとされる。
【資料】『鎮流祖伝』三(浄全一七)、『疑問抄』下(聖典五)
【執筆者:郡嶋昭示】