「熊谷次郎直実」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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くまがいじろうなおざね/熊谷次郎直実
永治元年(一一四一)—承元二年(一二〇八)九月四日。法名は蓮生(「れんせい」と読み、宇都宮弥三郎頼綱の法名蓮生は「れんしょう」としている)または法力房とも号した。晩年は熊谷入道と称される。源平の合戦で勲功をたてた鎌倉初期の御家人。のち法然に帰依した熱心な念仏信者。永治元年、武蔵国大里郡熊谷郷(埼玉県熊谷市)に直貞の次男として生まれる。熊谷氏は桓武平氏の一門とされるが、別に武蔵七党の私市党とも丹党の庶流ともいう。源平の合戦で武名をはせたが、一ノ谷の合戦で息子熊谷知家と同じ一六歳の平敦盛を討ち取ったことが、のちに出家するきっかけとなったという。『吾妻鏡』によれば、建久三年(一一九二)の暮、土地の訴訟で嫌気がさして逃亡した。伊豆走湯山の専光房良暹が、出家して上洛しようとする直実と会い、慰留しつつ浄土宗の法門を談じている。入門の経路については、『四十八巻伝』や『九巻伝』では、伊豆走湯山にいたとき尼妙真の「語り申しけるを聞きて」とあり、彼女は、既に法然に帰依していたのだから紹介もできたはずである(『念仏往生伝』)。京都での具体的案内人は、年齢的に聖覚よりも澄憲の方がふさわしい。直実に澄憲を紹介した者は、澄憲の弟子の伊豆の天台僧源延とも、真言宗醍醐の法流を通じて澄憲に連なる走湯山の覚淵とも考えられる(『醍醐三宝院文書』)。出家してからも蓮生の気性は激しく、犯人に馬のかいば桶をかぶせたり、簀巻きにしたり(『四十八巻伝』)、念仏に熱意のない者を縛ったり、法然が源智に与えた金色の名号を奪い取ったりしている(『真如堂縁起』)。同六年、郷里の関東熊谷に帰るときも西方を崇敬するあまり、逆馬で下った逸話がある。また後に源頼朝にあっても念仏と兵法を説く、勇ましい念仏者であった。このような蓮生に対し、法然はときには怠状を出させ、譴責しているが、蓮生自身は、それをことのほかうれしく思っていた(『証空書状』清凉寺所蔵)。建永元年(一二〇六)、自ら翌年二月八日の往生を予告して、武蔵国村岡市(熊谷市村岡)に高札を掲げたが果たさず、翌々年九月四日、再予告どおりに往生したという。
【資料】『諸家系図纂』、『系図纂要』、『熊谷伝』、『扶桑名画伝』、『諸氏家牒』、『為盛発心集』、『吾妻鏡』、『熊谷蓮生自筆願文』
【参考】梶村昇『法然上人をめぐる関東武者①熊谷直実』(東方出版、一九九一)、『郷土の雄・熊谷次郎直実』(熊谷図書館、二〇一〇)
【執筆者:小此木輝之】