「堀尾貫務」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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ほりおかんむ/堀尾貫務
文政一一年(一八二八)—大正一〇年(一九二一)四月二五日。綜蓮社安誉住阿一法。増上寺七七世。尾張国名古屋の人で、堀尾三左衛門の長男として生まれる。天保七年(一八三六)尾張城下白川町寿経寺(名古屋市中区栄)で出家し、弘化元年(一八四四)増上寺に修学し智典より五重・宗戒両脈を相承した。その後名古屋養運寺・寿経寺・養林寺・高岳院を経て、明治一四年(一八八一)五月二一日に清浄華院六四世となるが、交代管長制の紛議により同二〇年四月八日に各本山法主とともに辞任した。同二三年七月一一日に百万遍知恩寺六三世となり、諸堂修築・負債償還・維持財団設立などに尽力し、同三一年七月六日に大僧正に任ぜられ、翌年一〇月には管長代理として朝鮮巡化を務め開教の基礎を築いた。同三五年六月二〇日増上寺七七世となり国内巡教に努める一方、雑誌『縁山』の創刊、仏式結婚式の発表など新しい試みも行っている。同四二年四月一日大殿・飛雲閣・護国殿等が焼失すると、大正二年(一九一三)四月一〇日に大殿起工式を行い、その後再建のため自ら先頭に立って勧進托鉢に励み、同九年七月には貫務自身の再建助成金が累計七八〇〇円となった。同年一〇月に明徳学園開園、一一月に専用墓地設置に着手、翌一〇年四月一二日に大殿上棟式を執行したが、同月二五日に九四歳で入寂した。
【資料】『清浄華院誌要』『百万遍知恩寺誌要』(共に浄全二〇)
【参考】伊藤祐晃『浄土宗史の研究』(法蔵館、一九九六)、『大本山増上寺史』(大本山増上寺、一九九九)
【執筆者:福田行慈】