「西谷義」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:27時点における最新版
せいこくぎ/西谷義
一
西山流の一派。証空の弟子、浄音房法興を祖とする。名称は浄音の住した仁和寺西谷の光明寺(廃寺)に由来。美濃・尾張地方へ展開した六角系、関東や南紀に勢力を伸ばした吾妻系などに分派したが、やがて合流。江戸時代には粟生光明寺(京都府長岡京市)と永観堂禅林寺を東西の「両本山」とする一宗派となった。明治以降、数度の再編を経て、西山浄土宗(総本山光明寺)と浄土宗西山禅林寺派(総本山禅林寺)に分かれて現在に至っている。
【執筆者:稲田廣演】
二
良忠門下六派の一つである一条派の別称。派祖の礼阿然空が仁和寺西谷の法光明院に住したことによる。一条派の呼称は同派が一条の浄華院(清浄華院)を拠点に教線を拡げたことに由来するとされるが、浄華院を拠点としたのは然空の弟子の向阿証賢であり、また三条坊門に所在した浄華院が土御門室町を経て、現在の一条の地に移ったのは天正年間(一五七三—一五九二)にまで下る。『法水分流記』では、然空は「律僧」と注記され、また証賢の兄弟弟子で法光明院を相承した良然思空にも同じく「律」の注がある。『西大寺末寺帳』によれば、法光明院は一四世紀末までに西大寺の末寺になっており、法光明院が律院化したのは然空の代との推測もある。律僧たちとの交流の中で、証賢の教系とは異なる独自の教学的展開が見られた可能性もあるが、流派としての独自性を伝える資料は残っていない。
【参考】松尾剛次「叡尊教団と中世都市平安京」(『戒律文化』六、二〇〇八)
【執筆者:吉田淳雄】