「思惟正受」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:26時点における最新版
しゆいしょうじゅ/思惟正受
仏典において「思惟」と「正受」は一組に説かれることが多いが、訳語に対応する原語は複数存在し、一語に限定されるものではない。しかし例えば玄奘三蔵訳を参考にすると、『俱舎論』では「思惟」はⓈmanasi-√kṛ(心を対象に向けること)に対応する用例が多く、『瑜伽論』では「正受」はⓈsamāpatti(定、等至)に対応する。このように多くは禅定や三昧との関わりにおいて説かれる。浄土教との関わりで言えば、『観経』冒頭における用例が知られる。韋提希が釈尊に、西方極楽世界へ往生する方法を問う箇所「ただ願わくは世尊、我れに思惟を教えたまえ、我れに正受を教えたまえ」(聖典一・二九一/浄全一・三九)に説かれる。極楽世界の種々の荘厳やありようを観想する行法、ならびにその理論的分析との関わりにおいて、ここの「思惟」と「正受」に注目が集まり、その結果その解釈に諸説が生じた。浄影『観経義疏』、天台『観経疏』、善導『観経疏』などに説かれる解釈が有名。
【参考】髙橋弘次「選択集の性格について—特に非論理的一面を中心として—」(『恵谷先生古稀記念 浄土教の思想と文化』恵谷隆戒先生古稀記念会、一九七二)、同編『善導集記 観無量寿仏経疏講説』上下(四季社、二〇〇〇)
【執筆者:中御門敬教】