思惟定散
提供: 新纂浄土宗大辞典
しゆいじょうさん/思惟定散
『観経』冒頭の韋提希の請、すなわち「ただ願わくは世尊、我れに思惟を教えたまえ、我れに正受を教えたまえ」(聖典一・二九一/浄全一・三九)の「思惟」が、定善と散善のどちらに分類されるのか、との議論。浄影寺慧遠や智顗などは「思惟」を第十四観から第十六観(三福九品)までの散善、「正受」を初観から第十三観までの定善と理解した。対して善導は『観経疏』玄義分において「思惟」「正受」を共に定善とし、定善に分類される双方を一連の観想次第の前後に分けて、「思惟」を定善十三観の前段階、「正受」を定善十三観の観想自体とした。つまり「思惟」の段階では極楽世界はいまだ明瞭に現れず、続く「正受」の段階で観想が完成し、極楽世界を明瞭に観察できるという。残る「散善」については、韋提希の請から外れ、仏が自主的に説いたもの(随自意)と理解される。
【参考】髙橋弘次「選択集の性格について—特に非論理的一面を中心として—」(『恵谷先生古稀記念 浄土教の思想と文化』恵谷隆戒先生古稀記念会、一九七二)、同編『善導集記 観無量寿仏経疏講説』上下(四季社、二〇〇〇)
【執筆者:中御門敬教】