「西方寺」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:24時点における最新版
さいほうじ/西方寺
一
仙台市青葉区大倉。極楽山。通称は定義さん。宮城教区№一。定義如来という阿弥陀信仰で有名な寺院。平重盛の家臣平貞能(定義)が平氏滅亡後、重盛の護持仏である阿弥陀如来像画軸を携えて当地に一庵を建立したのが起源。宝永三年(一七〇六)子孫の早坂源兵衛が出家して観蓮社良念となり現在の寺院を建立した。山中にありながら漁師信仰の寺でもあり、浄土宗では珍しく祈禱を行うことでも有名。江戸時代には定義まいりの講もつくられ、近郷からの参詣人で賑わった。昭和六一年(一九八六)五重堂が建立された。
【資料】『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)
【参考】『宮城県史』一二(宮城県、一九六一)
【執筆者:𠮷水成正】
二
埼玉県川口市青木。願生山成就院。埼玉教区№三。寺伝では聖冏が応永(一三九四—一四二八)の頃に草創。六世相誉慶感の代に寺観が整いこれを中興とするが、その後火災、住職交代が相次ぎ事跡は伝わらない。二〇世順誉還愚の代、正徳四年(一七一四)に本堂庫裡等が新築されると共に、吉苅安右衛門尉橘康郡から本尊仏の寄進を受けて炎上後の復旧をみた。この年一〇月一五日、祐天を請し、本尊仏の開眼を行ったと伝わる。
【参考】『西方寺略縁起』(西方寺蔵、一九三六)
【執筆者:稲岡正順】
三
東京都杉並区梅里。松苔山峯厳院。東京教区№一〇三。元和三年(一六一七、一説に慶長二年〔一五九七〕)、四谷追分(角筈、現在の新宿駅東口)に、開基に駿河大納言徳川忠長(三代将軍家光の弟)、開山は豊臣家にゆかりのある心誉利通によって創設されたと伝えられるが、詳細は不明。文政一二年(一八二九)、明治三一年(一八九八)と二度の火災にあい堂宇を焼失、大正九年(一九二〇)、中央線の拡幅と道路の拡張のため現在地へ移転、昭和二〇年(一九四五)五月、戦災により建物を全焼、同五六年に現本堂を再興。本尊は室町時代造と伝えられる阿弥陀如来坐像。
【参考】森泰樹『杉並風土記』下(杉並郷土史会、一九八九)
【執筆者:渡辺真宏】
四
長野市西町。安養山極楽院。長野教区№三八。善光寺大本願にほぼ隣接し、大本願御忌大会では練り行列の練り元を務める。良忠の開創とされるが、中興開山誠誉翁公以前の歴代を未詳とする。ただし良忠をはるかに遡る歴史を窺わせる記述がある。現在地には永正元年(一五〇四)に移ったといい、西方寺の寺号は越後における上杉景勝の乱の頃からとする。明治四年(一八七一)の長野県成立時、本堂が県庁として使用された。平成二二年(二〇一〇)、チベット仏教様式による阿弥陀仏説法像を建立、ダライ・ラマ一四世が開眼した。
【資料】『蓮門精舎旧詞』二五
【参考】『長野県史 通史編二 中世一』(長野県、一九八六)、『信州の仏教寺院』二(郷土出版社、一九八六)
【執筆者:袖山榮輝】
五
京都市北区西賀茂鎮守菴町。来迎山大船院。京都教区№一九三。京都五山送り火の一つ、船形の寺院として知られる。承和一四年(八四七)に円仁が開いたとされる。もともとは天台宗であったが、正和年間(一三一二—一三一七)に道空が浄土宗に改めたという。道空により六斎念仏が行われることになる。毎年八月一六日には、京都の五山送り火の一つ船形万灯籠を点火したあと、六斎念仏も行われる。承和一四年、円仁が唐から日本へ帰る際、暴風雨にあい、名号を称えると、天候がおさまり、帰ることができた。その因縁により、船形になったという。
【執筆者:角野玄樹】
六
大阪府富田林市富田林町。天正山神宮院。大阪教区№三一九。もとは浄土寺と称す。触頭寺院であった。光誉が高野山の帰途に掛錫した際、伊藤左馬がその高徳に帰依し一宇を再建寄進した。天正一五年(一五八七)より現寺号に変更。山号は年号より、院号は鎮守三八皇神をまつる神社から名づけた。
【参考】『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)
【執筆者:伊藤茂樹】