「勤行」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:23時点における最新版
ごんぎょう/勤行
時を定めて仏前で誦経・念仏・礼拝等を修すること。浄土宗では、善導の六時礼讃に因み、昼夜六時に聖光の示した五種正行を実践する六時勤行を基本とし、現在は晨朝・日中・日没の三時勤行が『法要集』に定められている。本宗の勤行が法要としての形式を整えたのは、近世後半以降のことと考えられている。法然の比叡山時代は、天台の勤行である「法華懺法」や「例時作法」を勤めていたものと推察される。叡山を下りた後は、毎日『阿弥陀経』三巻と念仏六万遍、晩年は七万遍を称えていたことが、伝記等に記されている。聖光は、日課として六巻の『阿弥陀経』、六時の礼讃、六万遍の称名を怠らず、良忠もこれを踏襲して、六万称名、小経六部、六時礼讃を欠かさなかったとされる。以後の諸師も同様に、誦経・礼讃・念仏を日々の勤めとしていたことが窺える。室町末期になると、増上寺一〇世存貞等が、談義所(後の檀林)に対して六時の勤行を課し、以後さまざまな法度により六時勤行が制度化されるが、未だ勤行の形態を定めるには至らず、各山それぞれに誦経・礼讃・念仏を中心とした勤行を修していたものと考えられる。江戸初期から中期にかけては、忍澂の『浄業課誦』、宝洲の『浄業課誦附録』『日用念誦』をはじめとする勤行本や、諸経偈・儀式・縁起などを収載した、必夢の『諸回向宝鑑』などにより、勤行に必須の偈文・回向等が精選され、さらには義山、音澂等の「三部経」研究もあって、徐々に勤行の次第が整えられ、江戸後期の文政年間(一八一八—一八三〇)になると、現行勤行式の基本形がほぼ固まってきた。これを確固たるものとしたのは、幕末の安政四年(一八五七)に、増上寺学頭観随が著した『蓮門六時勤行式』である。同書は、その序や跋によれば、蓮門の行法である正助二業が弊風に侵され法儀が溷されているので、諸山の耆宿と協議し、今古を折衷して定めた勤行式であり、一宗画一の如く、例時(六時)の勤行が勤められることを願って制定したものであるという。その後、宗祖七〇〇回御忌を控えた明治四三年(一九一〇)に、増上寺から発行された浄土宗務所認定『浄土宗法要集並声明』には「通常法要式」の名称で勤行法が示され、五年後の大正四年(一九一五)には、宗規「法式条例」、宗令「法式差定」により、はじめて浄土宗としての「日常勤行法」が制定された。この頃になると寺院環境の変化により、六時勤行の実践は不可能となったため、同一三年発行の『宗定浄土宗法要集』では、晨朝・日没の二時勤行のみが定められ、さらに昭和一四年(一九三九)の『改訂浄土宗法要集』以後は、晨朝・日中・日没の三時勤行が制定されて、現在に至っている。
【資料】忍澂『浄業課誦』、宝洲『浄業課誦附録』、必夢『諸回向宝鑑』、観随『蓮門六時勤行式』
【参考】浄土宗総合研究所編『浄土宗日常勤行式の総合的研究』(研究成果報告書二、一九九九)
【執筆者:熊井康雄】