「信空」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年9月17日 (月) 10:08時点における版
しんくう/信空
久安二年(一一四六)—安貞二年(一二二八)九月九日。法蓮房、白川上人とも呼ぶ。葉室顕時の孫、行隆の子。一二歳で出家して叡空に入門する。すなわち、法然の弟弟子にあたる。叡空の死後、法然門下に入る。おそらく、法然の最初の弟子と推定される。法然に常随し、その門弟の中で最も有力な人物で、長老とも目されていた。建久九年(一一九八)のものとされる『没後遺誡文』では、入室の者は七人であるとし、その七人の筆頭に信空をあげ、「多年入室の弟子」(昭法全七八四)と呼び、黒谷本坊、白川本坊、坂下薗、洛中の地一所、本尊や聖教を付属する旨を記す。元久元年(一二〇四)には、『七箇条制誡』をまとめ、諸宗からの批判に対応しようとした。同書では、法然に次いで署名する。法然没後、法然の中陰を中心的に行ったとされる。栂尾高山寺蔵の信空署名の円頓戒戒脈によると、円頓戒を叡空と法然から相承される。さらに、信空はその円頓戒を権律師玄朝に伝授している。その他の青蓮院蔵や清浄華院蔵の戒脈では、湛空や慈胤などに相伝したことが知られる。信空の著述は現存せず、法語類は、『明義進行集』『広疑瑞決集』『祖師一口法語』などに残されている。信空の一派を白川門徒と呼び、信瑞や明禅らがいる。浄土宗大本山の金戒光明寺の後二世。
【参考】塚本善隆・三谷光順「法蓮房信空上人の研究」(『専修学報』一、一九三三)、三田全信『改訂増補浄土宗史の諸研究』(山喜房仏書林、一九五九)
【執筆者:角野玄樹】